『ウルチモ・トルッコ 犯人はあなただ!』(深水黎一郎/講談社ノベルス)

 第36回メフィスト賞受賞作です。メフィスト賞というといろいろとアレな作品もあったりしますが、今回は割りとマトモです(笑)。鏡を模したまぶしいカバー絵が本書の仕掛けをストレートに表現しています。

ウルチモ・トルッコ 犯人はあなただ ! (講談社ノベルス)

ウルチモ・トルッコ 犯人はあなただ ! (講談社ノベルス)

 本書はタイトルのとおり、「読者が犯人」を狙った作品です。もっとも、作中でも述べられてますが、今までにも「読者が犯人」というミステリがなかったわけではありません。それら名作として知られる既存の作品に意義を唱え、この難題にあえて挑んだそのチャレンジ精神には、それだけでエールを送りたいです。しかしながら、本書はやはり読者を選ぶと思います。あらかじめメタな仕掛けの可能性が明示されてる本作のような場合には、読者としてはどうしても物語に完全に入り込むことができません。なにしろ、犯人にされちゃうのかもしれないのですから(笑)。そんな中にあって読者にページをめくらせる原動力となっているのは、いかにして「読者が犯人」というトリックを成立させてるのか? という好奇心だと思います。この好奇心を一定以上共有してもらうためには、本格ミステリにおけるトリックの枯渇・「読者が犯人」などという珍妙極まりないアイデアの実現を希求するにまで至ってしまう本格ミステリというステージの現状についての共感が必要じゃないかと思うのです。そうでないとラストだけ読んでネタだけ知ってしまいたい誘惑に負けちゃうような恐れを感じてしまいます(笑)。もっとも、そんなもったいないことは絶対しちゃダメですし、私は最初から最後まで楽しく読めましたので杞憂なのかもしれませんけどね。変わった本が好きな方には問答無用でオススメです。
(以下、既読者限定で長々と。)
 「読者が犯人」というアイデアは、本来なら究極に意外な犯人を追求した結果、つまり意外性に特化したもののはずです。しかし、本作の場合は、最初にそのアイデアを宣言しちゃってます。そうなると、実際に「読者が犯人」を実現させても意外でもなんでもないですし、かといって違うオチにしちゃうと「ふざけんな」となってしまいます。したがいまして、本作の場合は意外性ではなくて、奇妙極まりないアイデアをいかに実現させていくのかという論理性の方に興味が向かうのは必然で、そうしますと本書の読み方も自然と重箱の隅をつつくようなものになってしまいます。私は気になったページに付箋を貼りながら読みました(←嫌な読者)。

 少年はいつも、自分が別の人間の夢の中の登場人物ではないかと考えていました(p73)とか、さりげなく読者にメタながらも作中人物へと位相をシフトさせようとする意図を感じさせられます。「ああ。俺は書いた文章と自分がじかにつながっているように思えて、文章を褒められると、もう天にも昇るような気持ちになる代わり、逆に否定されると、もう自分自身を全否定されたような気になるわけだよ」(p187)ってのも、小説家にありがちな悩みと思いきや、テキストとその効果についてのある意味伏線なわけですね。覚書での少年の星への憧れがいつの間にか本格ミステリにおけるトリックへと昇華されていくのも巧みですね。どこまでも計算され尽くした作り物らしさがとても好みです。「でもさ、どうしてその番号順にみなきゃいけないのさ」(p144)というのは、ミステリ論においてときどき主張される(私も言っちゃいますが)教養主義に対しての反論っぽく思えます。確かに「犯人が読者」という小説は本書が先駆けというわけではありませんが、だからと言ってそれらを読んでからじゃないと本書を読んじゃダメ! ってことは断じてありませんからね。もちろん番号順に読むのも立派な読み方の一つですし、まあ、読者の自由だと思います。
 もっとも、私にしたところで、《読者が犯人》などと言うトリックを、完璧な形で実現することなどほぼ不可能だと言う点では、有馬の意見からそう遠く離れているわけではない。有馬も言っていたが、ミステリーのトリックは厳密かつフェアでなければならない。仮に百万人がその本を読んだとしたら、その百万人全員が犯人にならなければ、トリックが成立したことにはならないだろう。ある読者は犯人にできたが、別の読者は犯人にできなかったではダメなのだ。(p111)など、この種のトリックについての説明が結構丁寧にされてるのがミスヲタ的にはツボです。奇抜なだけにこのアイデアについて集中的に語った論稿というのもほとんどないでしょうから、そうした資料的価値が本書にはあると思います。

 ま、トリックについての説明・伏線の回収は本書の最後の方で丁寧にされてますので、私がここでする必要はまったくないのです。言わずもがなかと思いつつ、それでも補足的にやっちゃったのは、この奇抜なアイデアを実現させるための著者の緻密な工夫・計算を是非分かって欲しいと思ったからです。いやー、ホントに力作だと思います。とはいえ、本書はやはりイロモノの域を出ないことは間違いなくて、ハッキリ言って邪道です(笑)。意外性が放棄されてるので読み方としては論理性の方に興味が向かう、と先に書きましたが、そうした観点からしますとやはり満点ではないでしょう。というのも、本書は確かにいろいろと気を配ってて、何とかこのアイデアを成立させようと努力はしているのですが、厳密には「確かに矛盾はないな」という程度の完成度であって、演繹的に導かれる論理的な結論ではありません。ま、超常現象なのですから無理もありませんが。意外性を最初に放棄しておきながら、最後に寄りかかってるのはやはり意外性で、しかも捨ててしまったものと比べると小規模なサプライズなので、本来ならばアクロバティックな大技を決めたはずなのにもかかわらず、なぜか地味な印象を受けてしまいます。私がミステリ読みとして擦れてしまっただけかもしれませんが(笑)、ただ、変なはずなのに地味というそのギャップが、短所どころか長所であるように私などには思えてなりません。もともと無茶な試みなわけで、その無茶をいかに減じさせるかという観点からだとすごく評価できると思います。文章力・構成力には非凡なものがあると思いますので、今度は邪道じゃない正道の本格を書いて欲しいと思います。
(二作目→『エコール・ド・パリ殺人事件』
 ネタばれついでに考察めいたことを。

「読者が犯人」と言うと、ミステリ・ファンのみなさんの多くは、「どうせメタなんでしょ」とお思いになるかと思いますが、一つだけ予告しておきますと、メタではありません。本当にみなさんに、犯人になってもらう所存です。
(メルマガ 講談社『ミステリーの館』2007年4月号 本人のコメントより)

 メタと言ってもいろいろな見方・考え方があるでしょうから一概には言えませんが、私はメタだと思います。本書は四段構造になってます。すなわち、作中作である香坂誠一の覚書、物語、新聞連載の読み手、ホントの読者、です。本人のコメントからすると、新聞連載の読み手=ホントの読者と言いたいのかもしれません。すなわち、犯人は新聞連載を読んでいる読者であって、正真正銘の読者(私たち)ではないという意味ですね。だから、メタと思わせておきながらメタじゃない、というのが本書の真価なのだ、ということだと思います。けれども、本書のテキスト内において本書の真相を説明している部分がありますが、これは伏線の説明を具体的にページ数を指定して行なわれています。しかし、こうした具体的なページ数を示しての説明など、新聞誌上の連載で出来るはずがありません。ですから、新聞連載→書籍化、という段階を考えざるを得なくて、そうすると正真正銘の読者(私たち)へのアプローチというものを考えざるを得ず、そうしたレベルの差を生み出してしまっている以上、本書はメタ小説ということになると思います。ただ、説明しなくてもよかったものを説明しちゃったがためにメタじゃない、ってことにしちゃうのも気の毒なので(笑)仮にそこは目をつむるとしても、作中作という時点で立派なメタ小説だと思いますがどうでしょう?(参考:Wikipedia-メタフィクション) いや、しかしそこはせっかくなのでもう少し作者に協力的になって読んでみましょう。覚書を一見内包しているかのように見える物語自体、私小説という体裁をとっていてフィクション性が抑えられています。その私小説性によって、覚書も新聞紙上の読者もフラットなものとして取り込んでしまっていると考えれば本書はメタ小説じゃない、と言うことも可能かと思われます。それとも違う読み方があるのかも? いやー、メタって難しいですね(汗)。
 あと、瑣末な蛇足ですが、一通目が速達だった手紙が、二通目以降は普通郵便に変わった理由は、もちろん香坂自身が郵便局の窓口で顔を見られるのをさけるため(p283)とありますが、速達だって速達料金分の切手を貼って”速達”って書くなりハンコ押すなりしてポストに投函すれば速達としてちゃんと出せますけどね(笑)。

 と、最後は愚痴みたいなことを書いちゃいましたが、トータルとして面白かったことは間違いありませんので、それだけは最後に念押ししておきます。
【追記】
 黄金の羊毛亭さんの『ウルチモ・トルッコ』ネタバレ感想にて、本書と読者との関係が図式入りで分かり易く説明されています。小説と現実との位相の関係が的確に表現されています。また、『読者が犯人』トリックが用いられている他の作品も紹介されていてこれもまた勉強になります。ご一読を強くオススメします。