『動物園の鳥』(坂木司/創元推理文庫)

 正気の人間なら誰も、推理小説の中の犯罪についての心理学的真実を捜したりはしない。そういうことを求める者は、むしろ『罪と罰』に向かうだろう。つまり、アガサ・クリスティに対して上級審となっているのがドストエフスキーというわけだが、正気の人間ならば誰も、そのせいでこのイギリスの作家の小説を非難することはないだろう。クリスティの小説は娯楽として読者をわくわくさせればいいのであって、ドストエフスキーが自らに課した課題とは無縁だからである。
『高い城・文学エッセイ』(スタニスワフ・レム国書刊行会)p392より

高い城・文学エッセイ (スタニスワフ・レム コレクション)

高い城・文学エッセイ (スタニスワフ・レム コレクション)

 上記引用のレムの述懐は、クリスティについてはその通りでしょうが、日本のミステリの現状を説明する場合には当てはまりません。単なる記号化された人物による物語とは異なる、心理学的真実を希求しつつも娯楽小説としても読まれることを意図した欲張りな物語がわが国では多数発表されています。それらの作中で語られている心理学的真実の妥当性については個々に検討するよりないので置いておくとして、そうした背景には松本清張に代表される社会派ミステリーの隆盛と、その影響が本格ミステリにも及んでいるということがあると思います。日本のミステリ界ならではの問題であり面白さでもあると言えるでしょう。ちなみに、社会派と本格については(なぜか)『ザンヤルマの剣士』の書評内で語ってますので参考までに。
 閑話休題ですが、本シリーズも、娯楽としての謎解きよりも心理学的真実を追究したミステリーの系統に属する作品で、本書はその最終巻です。
(以下、ネタばれ気味に長々と。)
 ”ひきこもり探偵”完結編はシリーズ初の長編です。これまでは、『仔羊の巣』でも語られていたように、推理の対象は被支配者側の行動・心理でした。そして、鳥井も坂木も男性でありながらも被支配者側に非常に近しい、シンパシィを感じてしまう人物なので、言葉は悪いですが仲間内での傷の舐めあいみたいなところがありました。しかし、本書は違います。本書で鳥井と坂木が出会う人物、それは中学時代の二人の同級生で、鳥井に対していじめを行ない、鳥井のひきこもりの原因を作った人物です。鳥井と坂木は、相談された事件だけではなく、自分たちの過去と向き合うことも余儀なくされます。物語はここにきて、支配者側と被支配者側の対立という、極めて真っ当な構図となります。もっとも、これまでのストーリーはこのための助走に過ぎなかったとも言えるわけですが。
 タイトルの意味は作中で説明されていますし、特にいいでしょう(笑)。そう、このシリーズは基本的には親切でして、「自分で考えろ」的な最近のミステリにありがちな思わせぶりな余白はありません。そうした説明を重視する姿勢がトリックとかに向いている分には全然問題がないのですが、動機とか人間性とかそっちの方の説明に走っちゃうと「おいおい、そこまで言うのかよ」と一方的・独善的に思えてしまってちょっと引きます。しかも鳥井に言われるとむかっ腹が立ちます(笑)。そんなむかつく性格の鳥井にスポットが当たってたからこそ、本書の展開には少々意表を突かれました。
 そもそも、ミステリにおけるワトソン役と言うのは物語の語り手であり読者の視線の代役です。それ故に、語ることはあっても語られることはあまりありません。何でもかんでも理性の刃で切り刻んでしまう探偵役を目の前にして、それでもなお語り手に徹することが出来るだけのキャラクタというのは、実は最適の人格者なんじゃないかと思います。そうした暗黙の了解があるからこそ、滝本と坂木の会話からの展開は、これしかないというベタなものであるにもかかわらず意外なものに感じてしまいました。思えば趣向こそ違いますが、京極夏彦の『姑獲鳥の夏』もワトソン役に対する読者の信頼を逆手にとったトリックであるという意味で通じるものがありますね。盲点にこそ問題を解決する鍵があって、でもそれは一人では気付くことができないからこその盲点で、それに気付くためには人との関わりが欠かせない。本書の冒頭の描写から結末への展開は、冷静に客観的にみれば予定調和以外の何物でもありません。にもかかわらずそこにドラマを感じてしまうのは、鳥井と坂木と、周囲をとりまく登場人物たちの心理を丁寧に描いてきたからこそでしょう。そうした心の動きがドラマ性を作り出している以上、あえてストーリーをドラマチックなものにする必要もないわけです。ってゆーか他の展開だったら怒りますしね(笑)。子供が大人になるための物語です。
 ミステリ分は薄い、とか文句みたいなことを言ってきましたが(笑)、結末までの大きな流れを見ると、叙情的・感傷的な物語であるにもかかわらず無駄のないスッキリとしたものに仕上がっています。これには構成美のようなものを感じますし、ミステリ読みとしても満足でした。
 ちなみに、文庫版の巻末には特別付録「鳥井家の食卓」がついてます。シリーズで登場した料理のレシピです。鳥井と坂木をイメージした2人前の分量で作成、というのがいかにもこのシリーズらしいです(笑)。
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動物園の鳥 (創元推理文庫)

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