『運命のチェスボード』(ルース・レンデル/創元推理文庫)

運命のチェスボード ウェクスフォード警部シリーズ 創元推理文庫

運命のチェスボード ウェクスフォード警部シリーズ 創元推理文庫


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そはなべて、いく夜昼の象棋盤、
人を駒とし運命のあそぶなり。
此處かしこ、これを動かし、詰め、ころし、
又つぎつぎに戻すとよ、小箱がなかに。
『オマール・ハイヤームのルバイヤート』第四十九歌
(本書p6より)

 本書は、ルース・レンデルのウェクスフォード警部シリーズの3作目に当たります。
 冒頭で描かれるのは二人の男女。そして男の死。二人の間にいったい何があったのか。
 その後、場面はキングマーカス署へと移ります。女性の殺害をほのめかす手紙。時を同じくしてその手紙に書かれているのと同じ名前の女性が行方不明になっているという知らせ。死体も容疑者も不明のまま、ウェクスフォード主席警部たちは捜査を始めることになります。
 本書はミステリではありますが、警察官たちにとって見れば、そもそも殺人事件なのかどうかすら分からない手探りの状態での捜査です。なので、誰が?(=フーダニット)とか、どうやって?(ハウダニット)とか、ましてや動機(ホワイダニット)といったものはなかなかテーマとして浮かび上がってはきません。つまり、ミステリ的には、何が起こったのか?(ホワットダニット)がテーマの物語といえます。ただ、何が起きたのかがハッキリしていないので、警部にしろ他の警官たちにしろ地道な捜査を続けつつ仮定に仮定を重ねた思考を展開するのみで、なかなか”推理”と呼べるようなロジックは出てきません。死体が出てきているわけでもないので具体的な容疑がかけられず、捜査にしても制約されたものになります。なので、強制でない範囲での会話といったものがとても重要になります。そして、その点については実に丹念に描かれています。ミステリ読みにとってはそうしたストーリー展開はともすれば退屈を覚えることにもなりかねませんが(笑)、レンデルは巧みな手法で読者の興味を惹きつけていきます。
 まずは冒頭のエピソード。そこではある男の死が描かれています。場面変わって警察署。そこで問題となってくるのは女性の安否。この二つはどのようにつながっていくのか。つまりサスペンス的な興味が仕組まれているのです。
 また、巻末の解説で紹介されているのですが、レンデルは自身とクリスティとの作風を比較して次のように述べています。

 彼女*1の考えだすプロットやどんでん返しが私にもできたらいいと思います。この点、彼女は断然すぐれています。ですが、人物設定や感情を表現する面では、彼女と私が互角とは思えません。彼女が描く登場人物の感情や人間関係は、現実に存在するものではありませんね。
(本書p314より)

 レンデルの描く人物の感情や人間関係が現実に存在するものかどうかといえば、必ずしもそうはいえないと思います(特に本書の一部の登場人物たちの行動は理解しがたいものがあります)。しかしながら、人物の書き込みという点では確かにレンデルに軍配が上がるのもまた事実でしょう。感情があって人間関係があるからこそ奸知と狡知が生まれます。それは決して劇的なものではないかもしれませんが、にもかかわらず読む者に驚きを与えることができるのです。
 本書はホワットダニットな物語、すなわちプロットが主体の物語なので、探偵対犯人といったお決まりの構図はなかなか見出せません。その代わりに本書で描かれているのは、誰もが盤上のチェスの駒であるということです。それは探偵役も犯人も被害者も、その他のキャラクタも例外ではありません。何を競って何のために存在しているのか分からないまま動かされるチェスの駒たち。本書では作中に特にチェスが題材として用いられているわけではありませんが、それでも”運命のチェスボード”というのはとても良いタイトル*2だと思います。

*1:クリスティのこと

*2:原題は Wolf to the Slaughter