『ザビエルの首』(柳広司/講談社文庫)

ザビエルの首 (講談社文庫)

ザビエルの首 (講談社文庫)

「”歴史とは何か? ――書かれたものである”、そう考えることは簡単です。”過去の出来事は、何者かの手によって書き残された瞬間に歴史となるのだ”と。しかしこの場合、”書く”という行為がかならず”誰か”の手によってなされたのだという、きわめて単純な、しかしきわめて重要な要素が見落とされがちです。書き手は、その時代、その地域、またその人固有の生い立ち、その他もろもろに支配された独特の世界観を持ち、書くという行為はそれらのフィルターをすべて経由してはじめて成り立つ行為なのです。そこには”完全に客観的な記述”などというものはあり得ません。つまり、完全な歴史、もしくは真実の歴史などというものは、そもそも存在しないのです」
(本書p221〜222より)

 歴史上の人物を主要人物としたミステリは柳広司の十八番です。ただ、本書の場合は聖フランシスコ・ザビエルという人物と彼が生きていた時代が物語の舞台の半分を占めてこそいますが、そこで扱われているダイイングメッセージや毒殺のトリックといった謎は歴史上のエピソードと直接のつながりはありません。なので、歴史ミステリというよりはその時代が舞台となっている時代ミステリといった方が妥当かもしれません。
 また、確かに本書はザビエルの生きた時代が舞台とはなっていますが、その舞台へ読者と作中人物をいざなうために、主人公の片瀬修平の意識だけが四百年以上前の人物の意識の中にタイムスリップするという特異な手法が用いられています。本書は修平の一人称で語られているのですが、過去の人物の中に意識が跳ばされているときには傍観者に徹するしかやることがないので、一人称でありながらまるで三人称のような観察者に徹した奇妙な描写となっています。というよりも、こうした独特な視点人物の視点・フレームを作り出すために過去の人物の意識の中への時間旅行といった珍奇なアイデアを採用したのではないかと、読み終わった今となっては思います。
 珍奇なアイデアと述べましたが、ただ、本を読むという行為自体にそもそもこの本が書かれた時間へのタイムスリップという側面があります。路上喫煙に罰金がとられるようになった時代へのタイムスリップ。そして、それより前の年にあったとある出来事。その時に思いを馳せると、程度の差こそあれ、修平とザビエルが抱えているトラウマに対して多少なりとも共感できてしまうのではないでしょうか。
 フランシスコ・ザビエルといえば、教科書的な知識としては、日本にキリスト教を初めて伝えた宣教師として知られています。布教活動とは、字義通りなら”教える”ということになるわけですが、果たして彼の心中はどのようなものであったのか。本書の結末では、異文化交流において必要とされる当たり前のことがほのめかされています。そうした境地が、ミステリという物語を通じて体現されているところが面白いと思いました。
 通常の意味のミステリとしての謎解きは他愛のないものなのでたいして面白いものではありませんが、文化・宗教・宗派の違いから生じるロジックの差異を現代人の視点でつなぎ合わせるという構造は面白いですし、その構造は本書全体の構造にもつながっています。宗教的な衒学趣味はそれほどではありません。しかし、本質的な部分ではかなり宗教的な物語です。だからこそ、極めて現代的な物語なのだと思います。