『僕たちのパラドクス』(厚木隼/富士見ミステリー文庫)

 第6回富士見ヤングミステリー大賞《大賞》受賞作品。
 佳作受賞作が面白かったのでとても楽しみにしてたのですが……。
(以下、今にも消そうか消すまいか迷ってるくらいの駄長文です。)
 結論からいうと、佳作である『麗しのシャーロットに捧ぐ(プチ書評)』の方が断然面白かったですね。もっとも、両者のベクトルが全然違うので比べるのもどうかと思いますが(苦笑)。
 巻末の(しょうもない)解説によれば、エンターテイメントに徹した姿勢が評価されたのだそうですが、徹しすぎてて何の感動も残りません。そこは立ち止まって考えた方がいいんじゃね? ってところもすっ飛ばしてのストーリー展開は見事といえば見事なのかも知れませんが……。ラブ臭はとても鼻につきますが、ラブ寄せの富士ミスに今更そんなこと言ってもどうしようもないですね。諦めましょう。それにしても、「剣を持った女の子が表紙の本は売行きがいいんですよ」(by麻生俊平『つばさ2』p262の編集さんの言葉より)そのまんまな表紙といい、女の子が戦いそれに守られつつサポートする主人公の男の子という役割分担といい、ここまでベタだとどうなんでしょうね? ひねた大人はもとより中高生にすらスルーされそうですが……。ガーランド指数なんて『ドラゴンボール』のスカウターが既知なものだからこそ深く説明されなくとも受け入れ可能ではありますが、こういうのを読むとライトノベルが字マンガと呼ばれることがある(あった?)というのも分かりますね(私自身は違和感あるので呼びませんが)。
 これだけだと単なる愚痴なので、一応ミステリ読みとしてそれなりに評価を試みたいと思います。
 まず、一番ミステリ的なネタが楽しめるのが巻末のあとがきだというのを何とかして欲しいです(笑)。いや、本文中にも、

「二二七九年にも、ミステリーってあるの?」
「そりゃ当然。どこぞの宗教みたいに、新古典派と古典原理主義派との対立は激化する一方ね。こないだなんて叙述技法が中央協会に異端認定されて、それに後押しされた過激派が叙述技法第一人者の自宅にテロを仕掛け、死者まで出る騒ぎになったのよ。もう一人称視点で話を書いただけで異端審問にかけられる物騒な世の中に――って、そんな話どうでもいいでしょ」
(本書p115〜116より)

 ってあるくらいなので、著者にはミステリについての素養がそれなりにあるみたいなんですよね。にもかかわらず、こんなのになっちゃうなんて(涙)。
 タイムトラベル物はミステリーの一種と言えるのです。という巻末の(しょうもない)解説の主張それ自体総論としては私も認めてよいと思います。しかし各論として、じゃあ本書はどうなの? となると、ミステリとしての魅力・面白さがまったくないと言わざるを得ません。例えば、昨年話題になった映画『時をかける少女』です。あれは別にミステリを意識して作られたわけではないでしょうが、ミステリ的な面白さ・カタルシスがありました。なぜなら『時かけ』には、あのシーンにはあんな意味があったのか、とか、あのシーンが今度はこんな風に使われるのか、といった伏線回収の面白さがあったからです。せっかく時間をいじるのですから、過去と未来のエピソードは有機的につなぎ合わせなくては意味がないでしょう。そこが本書には決定的に欠けているのです。ストーリー自体は確かにシンプルで読みやすくはありますが、読み返す気にまったくならないタイムトラベル物というのは無価値ではないでしょうか。
 タイム・パラドクスはパラドクスというくらいですから、100%の解法などおそらくないでしょう。どこかで無理が生じるのは仕方がなくて、その無理をどれだけ減らせるかというベターな解法の探求がタイム・パラドクスというテーマの本質でしょう。そういう意味では、本書はそれなりに成功していると思います。歴史改変によって生まれる複数の未来世界において、それをパラレルなものにするのではなく、存在可能性という考え方を導入して「Aが存在する世界」と「Aが存在しない世界」が同時並行的に存在する、というのは面白い解釈だと思います。それはまたミステリ的な解釈でもあります。犯人当てのミステリの基本スタイルとして、Aが犯人だとする仮説(テレビドラマだと無能な刑事がこれを主張させられる)とAが犯人ではないという真実(この場合は大抵Bという真犯人がいる)があり、さらにこの二つが同時並行的に存在している時間(証拠集めとか仮説のディスカッションとか)があってミステリは成立します(特に2時間ドラマ)。実際、ミステリで可能性って言葉は頻繁に出てきますよね。ミステリマニアは可能性をあーだこーだと議論するのが大好きなのです。推理の過程をシュレディンガーの猫に例えているものもあるくらいですしね。また、”プロバビリティの犯罪”なんて用語・トリックもあるくらいですからね。そんな可能性論を、本書はミステリ的に活用するのではなく、少年漫画的な文法へと落とし込むために使ってしまったのが正直ガッカリです(いや、著者はそれだけ大人だった、とも言えますが)。つまり、Aという未来とBという未来が拮抗している場合に、いや俺はどっちでもない(ある)Cという未来を作るんだ! というストーリーですね。パズルでもなんでもないじゃん! って話ですよ。てっきり、シナリオ分岐型ノベルゲームのマルチエンディング方式を、力技で一本の長編作に仕立てたような実験作(by法月綸太郎。ただし、具体的にどの作品を対象にしての記述なのかはネタバレになっちゃうので秘密)が読めるのかと少しは期待しただけに残念です。まあ、無難と言えば無難なのでしょうが……。
 次作があるのなら、もっとヘンテコなのが読みたいです。