『13時間前の未来』(リチャード・ドイッチ/新潮文庫)

13時間前の未来〈上〉 (新潮文庫)

13時間前の未来〈上〉 (新潮文庫)

13時間前の未来〈下〉 (新潮文庫)

13時間前の未来〈下〉 (新潮文庫)

 つぎのページをめくってそこに第十二章とあるのを発見しても、あなたの見まちがいではない。
 本書の章立ては逆順になっていて、その順番どおりに読んでもらうようになっている。理由は、読み進めるうちに明らかになるだろう。
(本書p7より)

 最愛の妻を何者かに殺され、しかも犯人として警察に逮捕されたニック。怒りと悲しみに暮れる彼の元に見知らぬ男が現われ懐中時計を渡される。1時間進むごとに2時間自動的に過去に遡る不思議な時計の力によって、彼は妻の命を救おうとするが……といったお話です。
 あらすじからも分かるとおり、本書はタイムトラベルを題材にしたお話です。もっとも、第十二章から始まる逆順の章立てという目新しさはあるものの、ストーリー自体はハードSFのような小難しいものではありません。SFありミステリありアクションありロマンスありのサスペンスとして構えることなく読むのが吉だと思います。
 『新版 タイムトラベルの哲学』(青山拓央/ちくま文庫)という本があります。この本は実現可能性ではなく理解可能性という哲学的観点からタイムトラベルについて考えることを目的としています。つまり、タイムトラベルは本当に可能なのか?パラドックスの問題はどのように処理すべきか?という問題以前に、そもそも私たちは時間というものを理解しているのか?過去とはなにか?未来とは?そして今とは?といった時間論に拠ってタイムトラベルについて考える本です。その第一章によりますと、時間には〈私の時間〉と〈前後の時間〉があるとされています。〈私の時間〉とは個々人の意識の中にある時間のことです。そこには〈今〉があって〈過去〉があって〈未来〉があります。一方、〈前後の時間〉とは物理学において一本の時間軸によって表現される時間のことです。〈前後の時間〉とは「以前―以後」の系列によって語られる時間のことであり、日付や時刻によって表示される〈私の時間〉とは独立した時間です。そうした時間軸上においては〈今〉も〈未来〉も〈過去〉も存在しません。なぜなら時間軸上の時間はすべて対等なものであり、ある一点をして〈今〉などと特権化することはできないからです。
 こうした時間についての理解に基づいて本書を読み解きますと、ニックの視点から語られる文字の羅列によって生じる時間はニックという個人の〈私の時間〉であり、一方、逆順の章立てによって表示される時間は〈前後の時間〉ということになるでしょう。
 ですが、既に述べたように、そうした小難しいことなど考えなくとも本書は十分に楽しむことができます。「一歩進んで二歩下がる」とでもいうべきタイムトラベルの中で、彼は様々な困難を経験することになります。妻の命を救うはずが逆にその死を早めてしまったり、死ぬ必要のない人物を死なせてしまったり。さらには、同日に発生した飛行機の墜落事故という大惨事も絡んできます。物語のハッピーエンドを迎えるための落としどころが途中でハッキリと見えてきてしまうために意外性は正直あまりなかったりしますが、どうやってその結末に持っていくのかという興味が物語を引っ張ります。
 本書がタイムトラベルとして小難しいものになっていないのは、作中でニック自身が述べているように、彼が最愛の妻ジュリアを救うことしか考えていないからです。そうした揺るぎない指針があるからこそ、彼はタイムトラベルの混乱やパラドクスに惑わされることなく彼自身の意思を持ち続けることができます。しかし、度重なる失敗と12回というタイムトラベルのリミットが彼に考え方の転換を迫ります。
 タイムトラベルものとしてはシンプルなストーリーなので過度な期待は禁物です。とはいえ、過去と未来という原因と結果の関係についてのバタフライ・エフェクト、あるいは「価値認識の概念」というシュレディンガーの猫を想起させる言葉を盛り込むなど、結末も含めてタイムトラベルものとしても読ませる工夫がそれなりに施されています。興味のある方にはそこそこオススメです。

新版 タイムトラベルの哲学 (ちくま文庫)

新版 タイムトラベルの哲学 (ちくま文庫)