『麗しのシャーロットに捧ぐ―ヴァーテックテイルズ』(尾関修一/富士見ミステリー文庫)

 第6回富士見ヤングミステリー大賞《佳作》受賞作ですが、なかなかの出来映えです。これが佳作なのですから、大賞はさぞ傑作なのでしょう。
 本書を一言でいうと、”ライトノベル版『ケルベロス第五の首』”です。
(以下『火刑法廷(ネタバレ書評)』との安直な比較、”操り”についてなど、ネタバレ気味に長々と)
 ゴシックホラーな雰囲気の中で繰り広げられるミステリアスな展開は何だかとても懐かしい感じがします。ホラーとミステリーが奇跡的に融合している作品といえば何と言っても有名なジョン・ディクスン・カーの『火刑法廷』が思い浮かびます。本書もひょっとしたらその系譜に連なる傑作なのかな、と期待しながら読み進めましたが、残念ながらそっち方向には着地せずに、ファンタジーな方向に着地しちゃいました。しかし、着地点がそっちだからといってミステリーとして駄目かと言えば全然そんなことはなくて、とても面白かったです。
 ちなみに、『火刑法廷』は本書よりもずっとシンプルな構成ながらもミステリでもありホラーでもある不思議な余韻の残る、まさに傑作中の傑作です。どたばたバカミスで知られるカー(←褒めてます)の作品でも異例中の異例・例外中の例外で、森博嗣「偶然の産物では、と思うくらい、カーにしては出来すぎた作品です」(『森博嗣ミステリィ浮遊工作室』より)と評価しているくらいの名作なので、未読の方には是非読んで欲しい逸品です。
 本書のホラー的な要素を支えている人形ですが、これは本格ミステリ的な分析・用語的にはいわゆる”操り”がモチーフになっているとも言えます。本格ミステリにおける”操り”とは何か? 誤解を恐れながら説明しますと、それは2つに大別できるでしょう。
 一つ目は、証拠の信頼性において問題となる形式です。探偵がある証拠に基づいて推理を行ない、ある人物を犯人として特定します。ところがその証拠が真犯人によって用意された偽の証拠だった場合に、探偵役が行なった推理は真犯人によって操られたもの、つまり”操り”の結果ということになります。しかし、作中レベルにおいて、偽の証拠と真の証拠を探偵役が峻別することは客観的に可能だろうか? それは不可能ではないのか? 結局は作者の恣意でしかないのでは? それが証拠における”操り”の問題です。ちなみに、この問題に興味のある方には、法月綸太郎『初期クイーン論』(『複雑な殺人芸術』に収録)がオススメです。もっとも、理解のためにはクイーンの作品を何冊か読んでることが必要なので、ハードルがちょっと高いことは否めませんが。
 二つ目は、黒幕の存在において問題となる形式です。探偵がやはり証拠に基づいて推理を行ないある人物を犯人として特定します。その人物が狭義の犯人であることは間違いないのですが、どうにも納得のいかない箇所があり、それが実は黒幕の存在を示すものだった、という場合です。この場合、真犯人による犯人の”操り”ということになります。これだけだと単なる共犯関係の説明にしか過ぎないように思われますがことはそう単純ではなく、操られていた側が操られていたことに気付いてなかったりすることで人間の自由意志の問題・ひいては人間の記号化へと論点が移っていってしまうことが往々にしてあります。さらに、黒幕が人間ではなく、思想であったり神であったり物語であったりと様々なケースがあります。それに、犯人の背後に黒幕がいたとして、その黒幕に黒幕はいないという保証はどこにもありません。黒幕の存在位置が犯人と同列ではない上位の存在であることにその根拠を求めると、物語によって物語が飲み込まれてしまうことになります。しかし、その物語だって飲み込まれない保証はどこにもないわけで、まさにマトリョーシカです(この問題に興味のある方には鯨統一郎『ミステリアス学園(ネタバレ書評)』がオススメです)。ついには、究極的にはすべての登場人物は作者という神に操られた存在だ、という極論にたどり着くまでに時間はさほどかかりませんでした。しかしその作者だって何かに操られてその作品を書いているのかも知れず、そうすると黒幕の存在は無限連鎖していくばかりで特定することができません。作者まで巻き込みはじめるミステリがメタ・ミステリなわけですが、そんなメタ・ミステリの作者は誰か? と言えばやはり作者(まさにウロボロス)なわけで、それが黒幕の存在における”操り”の問題です。
 いずれの場合にしても、”操り”の問題を嘘偽りなく真摯に解決しようとすると、メタな処理・作者の意向というところに帰結せざるを得ないのが現状です。しかし、だからと言って露骨にメタな処理をしてしまうと物語世界が閉じなくなってしまいます。ですから、先に私は”ファンタジーは方向に着地しちゃいました”と述べましたが、それもしょうがないというか必然というか、つまりヴァーテックでオチをつけるより他はなかったのだと思います。本書は、ある意味”操り”のテーマがたどりついた極北であるという評価もできると思います。
 巻末のあとがきで著者自身が述べているとおり、本書はヴィクトリア朝時代をモデルにしながらもあくまで架空の世界の物語です。どこまでも作り物の設定です。しかし、そうした設定・本書の複雑な構成とが、人形という作り物・人間を模したつぎはぎだらけの存在と重なり合うイメージでとても魅力的です。作り物なだけに、本書を読んでもこういうのにお約束なオカルト的薀蓄・無駄知識が得られないというのは正直残念に思うのですが、レーベル的な紙数の制約を考えると仕方がないのかもしれません。逆に言えば、そうした薀蓄もなしにこれだけの雰囲気を醸し出しているのがすごい、とも言えますね。
 ちなみに、こちらのページの感想メモリンクからたどってみましたが、本書のイラストについては否定的な見解が多いみたいですね。でもまあ、私は嫌いじゃないです。いや、イラストなしがベストだとは思います。しかし、どうしてもイラストをつけるということであれば平面的で線の少ないアニメ絵・萌え絵は、いかにも操られている感じ・魂の入ってない感じが出ててとても良いと思います(褒めてる?)。それに、イラストによる騙しも本書の”操り”という構成を考えればとても自然なことのように思えますしね(笑)。
 なお、本書の構成を特に面白いと思った方には、殊能将之鏡の中は日曜日』、ジーン・ウルフケルベロス第五の首』などがオススメと思ったり思わなかったりです(後者は特に難解ですのでご注意を)。
【関連】ミステリとライトノベルの『四大奇書』
火刑法廷 (ハヤカワ・ミステリ文庫 5-1)

火刑法廷 (ハヤカワ・ミステリ文庫 5-1)

法月綸太郎ミステリー塾 海外編 複雑な殺人芸術

法月綸太郎ミステリー塾 海外編 複雑な殺人芸術

鏡の中は日曜日 (講談社文庫)

鏡の中は日曜日 (講談社文庫)

ケルベロス第五の首 (未来の文学)

ケルベロス第五の首 (未来の文学)