『あるキング』(伊坂幸太郎/徳間文庫)

あるキング (徳間文庫)

あるキング (徳間文庫)

 まさに、それは正しい。そういった先入観こそが様々な悲劇を生むのだ。
 仙醍キングスは弱い、だからそこにいる選手は不幸に違いない。といった先入観も同様だろう。仙醍キングスの選手は、野球を楽しんでいないと当然のように信じている。
 実際はどうなのか、を誰も気にかけない。
 フェアはファウル、ファウルはフェア。きれいは汚い。汚いはきれい。
 まさに「マクベス」に出てくる魔女の台詞がぴったりと来る話ではあった。外見が恰好いいからといって、善人とは限らず、その逆ももちろんある。
 良いと悪いは、簡単には決めつけられない。
(本書p40より)

 仙醍キングスはとてつもない弱小チームで、そのモデルは本拠地からし楽天イーグルスかと思われる方もおられるかもしれませんが、ここ数年のペナントレースの実績的に横浜(DeNAベイスターズこそがモデルとしてより近しいといえます。いや、作中の表現からして、もしかしたらベイスターズよりもさらに下を行く弱さかもしれません。それが仙醍キングスです。
 かくいう私は、実をいいますと横浜DeNAベイスターズのファンだったりしますが、基本的に試合は負けるものだと思っています。ましてやCSや優勝などとんてもないことです。熱狂的に特定のチームを応援して、その勝利を熱望されているような野球ファンの方にはなかなか分かってもらいにくいかもしれませんが、私は私なりに野球観戦を楽しんでいますし、こういう観方をしているファンは意外に多いのではないかと思ったりもします。「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という言葉がありますが(参考:松浦清 - Wikipedia)、勝ったときは結果オーライで済まされがちな事柄であっても、負けてしまった場合には結果オーライは通用しません。常敗球団を通した方が、結果オーライで済まされがちな勝敗に大きく関わる要素を描きやすいということはいえます。とはいえ、本書の場合には、勝敗を超越した一野球選手の生き様こそが眼目です。ひとりの選手の活躍がチームの勝敗にどれだけの影響を与え得るのか。そうした勝負事の不条理と悲哀を描く上でも、やはり常敗球団が主人公の活躍の舞台として相応しいといえます。
 本書は、主人公である王求がバットを持った孤独な王様として、みんなのためにホームランを打つお話です。王求は「おうく」と読みます。熱狂的な仙醍キングスのファンである両親が、キングス(王)から求められるような選手になるように、という思いを込めてつけられた名前ですが、横書きにすると「球」にも見えるという野球馬鹿らしい意味も込められています。そんな王求が生まれ、幼少期から波乱万丈な人生を送った挙句、野球選手として大成して、そして……。
 本書の語りは、視点も距離感も独特で様々です。本書は「〇歳」から始まって山田王求の年齢で区切られた章立てがなされていますが、三人称視点が用いられている場合には、いわゆる「神の視点」とでもいうべき上からの描写、王求の未来や運命を見透かした描写がなされています。また、「三歳」「十三歳」「十七歳」そして「二十二歳」の章では「おまえ」という二人称が用いられています。これは、孤独な王様の内面を描くことなく、それでいてその心情やその奥にあるものを読者に対して投げ込んできます。一人称の場合には、「僕」や「俺」など、王求の身近にいる人物から見た王求の姿が語られます。このように、王求自身の内面を直接的に描くことなく、様々な人称を駆使することで、王様の裸を描こうとしています。
 本書では、王求の野球人生と平行して、様々な犯罪、もしくは犯罪的な行為が行われます。フェアとは何か?はファウルとは何か?の裏返しで、その意味でフェアはファウル、ファウルはフェア、なのは間違いありません。そのライン自体ははっきりと明確にグラウンド上に白線として描かれていますが、それをジャッジするのは審判の目、つまりは人間の認識と判断によります。フェアがフェアであったりファウルであったり、あるいはファウルがファウルであったりフェアであったり。そうしたジャッジの積み重ねによって野球というゲームは進行していきます。そして人生というゲームもまた……。
 少々変わった作品ではありますが、野球好きの方はもとよりそうでない方にも広くオススメな一冊です。
【関連】伊坂幸太郎インタビュー 最新長編小説 SOSの猿|特設ページ|中央公論新社

『あるキング』は、読者への配慮を極力少なくしたんですよ。楽しい会話とか、登場人物が変わり者で共感できるとか、伏線張って回収するとか、そういうものを意識的になくした。『魔王』のときも近い意識だったんですが、『あるキング』ではもっと開き直ってやったんですね(笑)。