『都市と都市』(チャイナ・ミエヴィル/ハヤカワ文庫)

都市と都市 (ハヤカワ文庫SF)

都市と都市 (ハヤカワ文庫SF)

 都市をながめるには、目を開けているだけではだめだ。第一に、それを見ることを妨げているものすべて、一般に容認されている意見や、視界と理解力を妨害している先入見を捨て去ることが必要だ。それから、見る人の目の前に次つぎに都市が差し出す膨大な数の要素を本質へと限定して、単純化しなくてはならない。そして機械の機能が理解できる図式のような、ちらばった断片を分析的で統一された構図にまとめるのだ。
『水に流して カルヴィーノ文学・社会評論集』(イタロ・カルヴィーノ朝日新聞社)所収「都市の神々」p361より

 ヒューゴー賞、世界幻想文学賞、ローカス賞、英国SF協会賞受賞といった文字が表紙に踊っているのを見ますと、それだけで期待感が否応なく高まりますが、いざ実際に読んでみると何とも奇妙なお話です。とりあえず裏表紙からあらすじを抜粋しますと……。

 ふたつの都市国家〈べジェル〉と〈ウル・コーマ〉は、欧州において地理的にほぼ同じ位置を占めるモザイク状に組み合わさった特殊な領土を有していた。べジェル警察のティアドール・ボルル警部補は、二国間で起こった不可解な殺人事件を追ううちに、封印された歴史に足を踏み入れていく……。

といったお話です。本書の奇妙さは、”モザイク状に組み合わさった特殊な領土”という都市とそれを支える文化の特殊性にあります。べジェルとウル・コーマのふたつの都市国家の間には物理的な壁は存在しません。その代わり、意識的な無意識の壁が存在しています。どういうことかといいますと、両国の国民は互いに相手の国が存在しないように振る舞わなくてはならないのです。一方の都市の住人は、他方の都市の住人や建物や車といったものを見ることも、それらが発する音を聞くことも禁じられています。ふたつの都市国家間において、相手の都市が存在していることは公然の秘密なのです。だからといって、ふたつの都市の間に交流がまったくないのかといえばとそうではなくて、それぞれの旧都市の中心に存在するコピュラ・ホールを通れば合法的に両国間を行き来することができます。ただし、ウル・コーマからべジェルに入国すればウル・コーマが見えなくなりますし、ベジェルからウル・コーマに入国すればベジェルが見えなくなります。
 そうした訓練を、ふたつの都市の住人は幼い頃からの鍛錬によって自然に身につけています。視覚や聴覚といった感覚器自体は正常に機能していますので、相手の都市を見たり聞いたりすることはできています。その上で、それこそ無意識のレベルで瞬時に判別を行ってその存在をシャットアウトします。これは両都市の住人にとってもっとも基本的なルールにして常識です。そうしたルールを破る行為は〈ブリーチ〉と呼ばれています。〈ブリーチ〉を公然と犯した者は、謎のどこからともなく現れる謎の組織の一員によってどこかに連行されてしまいます。何といいますか、哲学的な作品のようでありながらギャグ漫画みたいでもある不思議な設定のお話なのです。
 こうした奇妙な設定や背景が作中で丁寧に説明されることはなくて、主人公であるボルル警部補のハードボイルド調の一人称視点描写から自ずと理解していくほかありません。ボルルが追うことになる事件は、ふたつの都市をまたいで発生したと思われる殺人事件です。読者は殺人事件の捜査と謎を取っ掛かりとして、殺人事件だけでなくベジェルとウル・コーマというふたつの都市国家について理解することも求められます。そして、読者がそれを理解した頃、〈ブリーチ〉がボルルの身にも迫ることになります。
 本書の取っ掛かりはミステリ的ですが、「見えてるけど見えていない」という本書の設定は、ミステリ読み的にはとある郵便配達員にまつわる古典的有名トリックを思い起こさずにはいられないでしょう。実際、私たちは日常生活において見えているものすべてを認識しているわけではありません。視覚や聴覚から入ってくる様々な情報に優先順位付けが行われ、あるいは精神衛生的倫理的ブレーキがかかったりなどして、情報は取捨選択されています。同じ場所にいるからといって、あるいは同じものを見ているからといって、同じものが見えているとは限りません。本書はそうした人間の認識の仕組みや意識のフレームがデフォルメ化された作品だといえます。
 都市という概念を生み出しているのは人々の意識以外の何ものでもありません。ベジェルとウル・コーマの間には物理的な障壁が一切ないことからもそれは明らかです。にもかかわらず、ベジェルとウル・コーマにおいては、都市が人々の意識の枠組みを生み出して決定付けています。本書の始まりは殺人事件ですが、本書の主役にして真のテーマは都市です。そんな都市と個人との関係を強調して描き出すために、個人と孤独を描くハードボイルド調の語りが用いられています。個人と都市との関係という観点からすると、セカイ系(【参考】セカイ系 - Wikipedia)などを引き合いに出して考えてみるのも面白いかもしれません。
 ただ、好みの問題といわれればそれまでですが、本書の結末はどうにもカタルシスに欠ける気がしないでもないです。いやいや、それだといったい何のためにここまで頑張ってきたのか……と思わずにはいられないのです。ですが、テーマに殉じるという意味では、この結末しかないのかもしれません。つまるところ、本書は都市が主人公のお話なのですから。ありがとう、そしてさよなら。オススメです。
【参考】http://www.cafeglobe.com/news/worldnews/wn20070420-01.html