『川は静かに流れ』(ジョン・ハート/ハヤカワ文庫)

川は静かに流れ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

川は静かに流れ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 わたしが書くものはスリラーもしくはミステリの範疇に入るのだろうが、同時に家族をめぐる物語でもある。偶然そうなったわけではない。誰にでも家族が居る。いい家族、悪い家族、離ればなれの家族、心の合わない家族。どれであってもわたしの意図には関係がない。話はいくらでも飛躍させられるし、それでも読者は理解してくれる。家族崩壊は豊かな文学を生む土壌であると、わたしは折にふれ発言してきたが、心からそう思う。この肥沃な土壌は、秘密や犯罪という種を蒔いて緊迫感あふれる物語にまで育てるのにうってつけの場所だ。裏切りがもたらす傷は深く、悲しみはいつまでも消えず、記憶は永遠に残る。作家にとってまさに天からの恵み以外の何物でもない。
 そういうわけで、誰をおいてもまず、我慢してつきあってくれた家族に感謝したい。
(本書p5謝辞より)

 2008年エドガー賞最優秀長篇賞受賞作品です。
 「悩む」ことと「考える」ことは、私にとって似て非なるものです。私はあまり悩むことはないのですが、それというのも私にとって大事なのはまずは考えることであって、考えた上で出した結論であればたとえ間違っていたとしても仕方がありませんし、考えても答えが出せない場合であればそれはひとまず保留して別の考え方のアイデアが沸いてくるのを待つか、あるいは考える上で必要な材料を新たに探してくるなどします。なので、あまり悩むということはありません。
 ですが、いくら考えても答えが分からなかったりあるいは答えを出すには材料が不足していたりして、にもかかわらず答えを出さなくてはいけない場合や、いくつかの選択肢の中からどれかを選ばなくてはならない場合には悩まざるを得ません。なので、悩んだ末に結論を出し、後になって考えたときに過ちに気づき後悔する……。本書はそんな苦悩と、そこからの再生の物語です。
 主人公のアダムは5年前に殺人の濡れ衣を着せられて故郷を離れました。5年前の殺人容疑については法律上は結論が出ています。すなわち、アダムは無罪です。ですが、ミステリの裁判は白黒がはっきりつきますが、現実の裁判は「黒か黒でないか」つまり、黒か灰色かさえ判断できればよくて、なにも白であることまでの証明が要求されるものではありません。だからこそ「疑わしきは被告人の利益に」という法原則のバイアスがかけられます。つまり、アダムの故郷の住人にとって、アダムは灰色のままなのです。さらに問題があって、アダムが殺人の容疑をかけられる際に重要で決定的な証言をしたのがアダムの継母なのです。そこで、アダムの父ジェイコブは、息子アダムと妻ジャニスのどちらを信じるかという決断を迫られることになります。そしてジェイコブはジャニスを選び、アダムは故郷を出ました。それから5年。アダムは故郷に戻ってきますが、そこで待っていた新たな殺人事件によって、アダムと家族たちは再び5年前の殺人事件についても向き直ることになります。

 警察に話す前に、犯人が誰かを知っておきたい。
 それが、僕にとって大切な人である場合にそなえて。
(本書p288より)

 父と息子と継母。そして父と継母の間には息子と娘がいて、継母は息子にとって不利な証言をした。という家族関係を前提に考えますと、5年前の殺人事件の真犯人候補がすぐに絞れてしまうのはおそらく私だけではないはずです(苦笑)。なので、本書は本質的にはミステリではなくスリラーとして評価すべきだと思いますが、新たな殺人事件の謎を追いかける過程は十分に楽しめます。それに、本書の真価は犯人当てゲームにはありません。たどり着いた真相を目の前にして、自らがどのような選択をするのか。あるいは、どのような選択を相手に迫るのか。そんな正解のない問いに直面したときの苦悩こそが本書の眼目です。結末の余韻も印象に残る佳品です。