『ベツレヘムの密告者』(マット・ベイノン・リース/ランダムハウス講談社文庫)

ベツレヘムの密告者 (ランダムハウス講談社 リ 5-1) (ランダムハウス講談社文庫)

ベツレヘムの密告者 (ランダムハウス講談社 リ 5-1) (ランダムハウス講談社文庫)

本書における犯罪はすべてベツレヘムで実際に起きた出来事に基づいている。個人情報や事件の背景の一部は変更されているが、殺人者は実際にこのように殺し、死者もまたこのように死んでいった。
(本書p4より)

 2008年の英国推理作家協会新人賞受賞作品です。 
 デスゲームと呼ばれる作品があります。ミステリ史的に考えますと、そうした作品はもともとはクローズド・サークル(参考:クローズド・サークル - Wikipedia)ものから派生したものと考えられます。クローズド・サークルとは”吹雪の山荘”や”嵐の孤島”といった外界と隔絶された状況のことを指します。警察の介入が困難となり、さらには容疑者の範囲が特定されることで、サスペンス性が高まると同時に推理による厳密な犯人当てが可能になります。
 ところが、そうしたクローズド・サークル内で殺人事件が発生しますと、やがて『そして誰もいなくなった』の様相を呈してきます。そのような状況下において大事なのは、推理ごっこによって真相を突き止めることではありません。まずは生き延びることです。そのように価値観がシフトした結果として生まれたものがデスゲームものだと考えられます。デスゲーム作品で行なわれる頭脳戦の目的は、まずは生き延びることです。相手との駆け引き。裏の読み合い。真相を捻じ曲げてでも相手を陥れる知略。そして、場合によっては相手を殺すことをも辞さない覚悟。デスゲームではそういったものが重要になります。そこに通常のミステリとの大きな違いがあります。
 本書は、パレスチナ自治区の都市ベツレヘム(参考:ベツレヘム - Wikipedia)を舞台に、パレスチナ人の視点でパレスチナ人の庶民の姿を描いたミステリです。訳者あとがきによれば、南ウェールズ生まれの作者はジャーナリストとして中東の記事を書くようになり、1996年からはエルサレムに居を移します。そんな作者が「記事には書けないグレーゾーン」として描いたのが本書です。
 ベツレヘムではあまりにも死が身近なものになっています。イスラエルとの抗争はいつ終わるともしれませんし、内部でも治安の悪化が進んでいます。さらに、”殉教者”としての死があります。宗教や政治的立場の対立は人を殺す理由として十分なものですし、そうした場合に、真実が置き去りにされてしまうことも珍しくありません。
 本書で起きる殺人事件はクローズド・サークルの状況で発生するわけではありません。ですが、あまりにも死が身近なものであるために、市民の多くは真実の追究よりも自らと家族の保身を第一に考えます。それは至極当然のことではあります。しかし、本当にそれで良いのでしょうか?そうした問題意識があるからこそ、本書はミステリとして描かれています。デスゲームの価値観の中にあるからこそ、探偵の意義が、ひいてはミステリの意義が問われることになるのです。
 本書に登場する探偵役は56歳になる国連学校の歴史教師ですが、密告者として処刑されようとしているかつての教え子の無実を晴らすべく探偵ごっこを始めます。しかし、周囲の誰もがそうした行動を止めようとします。なぜなら命の危険があるからです。ですが、それでも彼は探偵としての調査をやめようとはしません。そこには、探偵というよりは、教師としての矜持があります。彼は探偵役としては決して有能ではありません。加えて、状況は過酷を極めます。いや、これがパレスチナの日常だと言われてしまえばそれまでですが、正直いってこの展開には驚きました。
 特に面白い推理がなされているわけでもなければ意外な結末が待っているわけでもありません。ミステリとしてはお世辞にも出来がよいとはいえませんが、それでもあえてミステリ読みにオススメしたい一冊です。