『龍盤七朝 DRAGONBUSTER〈02〉』(秋山瑞人/電撃文庫)

龍盤七朝 DRAGONBUSTER 〈02〉 (電撃文庫)

龍盤七朝 DRAGONBUSTER 〈02〉 (電撃文庫)

 次はいよいよバトルです。初めての勝利と初めての敗北、そろそろ本物の血が流れ始めます。一応、次の巻でラストまで行くつもり。
(『龍盤七朝 DRAGONBUSTER 〈01〉』あとがきp299より)

 何といいますか、続きが出ただけで話題になるのってずるいですよね(苦笑)。それでいて3巻以降に続くとは……。そんなわけで3年と8ヶ月ぶりにシリーズ2作目が出たわけですが、これがまた面白いのです(悔しい!でも読んじゃう!)。トンデモバトルに理を通して表現する伝達力と、超人たちと市井の人の両者が生きて住んで暮らしている世界を描くバランス感覚の妙技に脱帽です。
 ”身の程を知る”という言葉は、普通は自らを過大評価することを戒める意味で使われます。ですが、字面どおりに読めば、自らを過小評価することを戒める意味にも読めます。とはいえ、何を持って評価するかという評価の基準、価値判断は時代によっても個々人によっても異なります。黒い目と青い目。目の色が異なれば見ているものもまた異なるのか。そんな価値観のミスマッチといかに折り合いをつけて生きていくか。長い目で見ればこれも立派な戦いです。
 一方で、そんな長い目で人生を見ることを箒ならぬ放棄したキャラたちがいます。同じ価値観を有するものを追い求め、ときには押し付け、互いの武力を比べる。”身の程を知る”というのは、それ自体が戦いです。むしろ、戦乱を終えたあとの本書の時代において、戦いというのはそのためにこそあるのだともいえます。自己実現とか承認欲求とかを充足するために生命を賭けるというのは価値観が完全に転倒しているように思いますが、「それぞれの行く道」とはそういうことなのでしょう。

 こいつも面をかぶっているのだと月華は思う。それは、生きんがために心の一端を自ら摩滅させ、あってしかるべき表情を封じ込め続けているうちにとうとう自分でも素顔と区別がつかなくなってしまった何かだ。
(本書p233より)

 月華の思いには元ネタがあります。洞庭神君の故事がそれです(参考:『柳毅伝』(田中貢太郎/青空文庫))。この故事については『子ひつじは迷わない 2巻』(玩具堂/角川スニーカー文庫)にて詳しく述べられていますし、『舞面真面とお面の女』(野崎まど/メディアワークス文庫)でもモチーフとして読み取ることができます。洞庭神君の故事はイラストというお面をかぶるラノベ系作品*1と相性がいいのかもしれません。

 私が書くときに意識していたのは、「全能感と無能感」ということです。例えば「全能感」から「無能感」におちいる、あるいは「無能感」から「全能感」に引き戻ってくる。「手が届くと思ったんだけれども届きませんでした」とか、「見えると思ったんだけれども見えませんでした」みたいなことを書きたいと思っていました。
(『小説トリッパー』2008年春季号所収、米澤穂信インタビュー「フェアな言葉の感触」(『小説トリッパー』2008年春季号所収、米澤穂信インタビュー「フェアな言葉の感触」p38より)*2

 こうした揺らぎを青春小説における成長の過程と捉えれば、本書で描かれている月華の勝利と敗北は、まさに全能感に対して強烈な無能感の揺り返しだといえます。底を意識した直後にさらなら底へ突き落とされる二重底の敗北。3巻以降では、ここから月華がどのように立ち直るのかが描かれることになるのでしょうが、個人的には自己評価が低すぎるキャラ、自己肯定ができないキャラもそれはそれで困ったものだと思うので、むしろ涼弧のほうに注目していたりもします。いずれにしても続きが楽しみですしオススメではありますが、次は何年後ですかね……?
【関連】『龍盤七朝 DRAGONBUSTER〈01〉』(秋山瑞人/電撃文庫) - 三軒茶屋 別館

*1:ライトノベル、と言い切らないのはメディアワークス文庫ラノベと言い切るのにほんの少しの躊躇いを感じるので。

*2:【関連】ミステリやファンタジーにおける「全能感と無能感」 - 三軒茶屋 別館