『チヨ子』(宮部みゆき/光文社文庫)
- 作者: 宮部みゆき
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2011/07/12
- メディア: 文庫
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巻末の著者インタビューにて各作品ごとの背景や内容についての解説がなされていますので、私がここで改めて語ることなどほとんどないのですが(苦笑)、せっかく読んだのでとりとめのない雑感を。
「雪娘」と「オモチャ」はともにゴーストストーリーですが、幽霊との関わりというより死者との関わりの違い・向き合い方の違いと、そうさせているものの違いがひんやりと染み渡る好対照な読み味です。こうした対比が楽しめるのが短編集の醍醐味です。
表題作「チヨ子」は、着ぐるみを着ることで見えてくる少し不思議で素敵なお話。なぜ人はネズミーランドに代表されるような着ぐるみ(おっと、誰か来たようだ)に惹かれるのかについて郷愁とともに考えさせられる好編です。
そして後半戦。まずは「いしまくら」。本作は幽霊を現実的に分析するお話ですが、「人は見たいものを見る」ことについての怖さと救いを描いているという意味で立派なホラーだといえます。
「でも、面白いね。面白いなんて言ったら不謹慎だけど、興味深い。悪いことをすれば必ずその報いがくるという考え方のベクトルはすたれたけど、その代わり、ひどい目に遭った人間には、きっと何かそうなっても仕方のない悪い要素があったんだというベクトルが機能し始めているわけだ。だって、犯罪の被害に遭った人のプライバシーなんて、ほとんど無視されてるもんね。それでもみんな、無礼を承知で詳しく知りたがる、報せたがるのは、そのなかに何か、自分とは違う、”悪い”要素が見つからないかと思うからよ。インチキな宗教の中には、災難に遭う人はみんな行いが悪いんだ、あれは報いだなんて言うものもあるしね」
(本書「いしまくら」p122より)
ここでの”インチキな宗教”というのは何も新興宗教に限りません。例えば、『クララは歩かなくてはいけないの?』(ロイス・キース/明石書店)という本では、物語に登場するクララなどのキャラクタは悪い行いや邪悪な考えを持ったために障害を負わされて、神を信じることでその障害は克服される、といった障害観が紹介されています*2。なので、そうしたベクトルというのは実は普遍的なもので、だからこそ根は深くて厄介なものなのだと思います。
そして中編「聖痕」。テーマは「神」です。因果応報のカタルシスを求めてさまようベクトルの問題を扱っているという意味で、「いしまくら」と対をなしている作品です。少年犯罪を扱った社会派小説かと思いきや、物語はさらに屈折した広がりを見せていきます。『DEATH NOTE』を思わせるネット上での都市伝説化。そして神聖化……。
彼らは(そしてわたしたちも)、聖書を知らなくても「黙示録」なら知っている。ローマン・カトリックの教義を知らなくても、「第七の封印」や「蒼白の騎士」や「大いなる赤き竜」なら知っている。「ハルマゲドン」を知っている。理解していなくても、想像を喚起する材料を知ってさえいればいい。「鉄槌のユダ」の言葉は、それ自体が持つ説得力よりも、その背後に見え隠れする既存の創作物の豊かな物語性や鮮やかなイマジネーションによって、子羊たちの心に届いたのだ。
(本書「聖痕」p188より)
『聖痕』というタイトルは、最初は罪が聖痕として扱われる皮肉を謳ったものかと思いながら読んでいましたが、物語は意外な展開を見せていきます。そして意外な真相も。情報によって喚起される想像力によって生み出される存在と物語。そして、物語は読み手に届くことによって成り立ちます。ですが、これはあまりに醜悪な二次創作でしょう。オススメの問題作です。