『儚い羊たちの祝宴』(米澤穂信/新潮文庫)

儚い羊たちの祝宴 (新潮文庫)

儚い羊たちの祝宴 (新潮文庫)

『床を異にして同じ夢を見るつもり?』
(本書p17より)

 「バベルの会」という読書会を軸にした緩いつながりの短編集です。その読み口は一言でいえば「奇妙な味」で統一されてることになりますが、中には激辛なものや激苦なものもあったりしますのでご注意を。
 本書には、「身内に不幸がありまして」「北の館の罪人」「山荘秘聞」「玉野五十鈴の誉れ」「儚い羊たちの晩餐」の5編が収録されています。どの作品も昭和中期頃と思われる時代*1を舞台に、上流階級と関わりを持った女性が語り手となっています。素朴な庶民のものとは異なる上流階級の価値観と、女性という”弱い”語り手。それはタイトルにある”祝宴”と”羊”に通じるイメージをもたらします。ですが、そうした屈折した世界であるからこそ、祝宴にはどこか儀式めいた意味合いも生まれてきます。それに、そもそも羊が必ずしも見た目どおりの羊であるとは限りません。ときには羊の皮を被った狼としての本性を表すこともあります。一方で、狼の皮を被った羊もいたりします。
 「ラストの一行で世界が反転」とオビなどで強調されていますが、この点をあまりに強調し過ぎるのは個人的にはいかがなものかと思います。ラスト一行といえば、瀬戸川猛資がエッセイ・評論集『夜明けの睡魔』で提唱している「最後の一撃(フィニッシング・ストローク)」を想起されるミステリ読みも多いかと思われますが、そこでいう「最後の一撃」とは簡単にいってしまえば最後の一行で物語の真相が明らかになる作品、まさに世界が反転する作品を意味します。ですが、本書の場合には真相自体は最後の一行以前に明らかとなってしまっています。そもそも、本書は真っ当なミステリというよりも冒頭で述べたように「奇妙な味」を楽しむタイプの作品集ですから、ミステリ的な緻密な構成力が要求される「最後の一撃」をあまりに強調してしまうと看板に偽りありとなってしまう恐れがあると思うのです。
 ですが、だからといってラストの一行が無意味なものかといえばそんなことはなくて、収録作品のラスト一行には、どれも衝撃があります。それは暗い悦びを伴う読後感です。巻末の千街晶之の解説で述べられているように見事な「悪意の演出」です。悪意に対してぱらりと善意を混ぜつつも、また別の悪意を持ち出してくるこその妙味といえますが、そこに悪趣味だとは知りつつも清々しさを感じます。
 これまた解説で触れられていますが、本書には古今東西のミステリを彷彿とさせる設定・マニアックな伏線が散見されます。それはマニアにとっては嬉しい仕掛けかもしれませんが、それよりも、読者に対して「バベルの会」に連なる資格があるか否かを問うものだといえると思います。ひっそりこっそりながらも強くオススメの一冊です。