『エルサレムから来た悪魔』(アリアナ・フランクリン/創元推理文庫)

エルサレムから来た悪魔 上 (創元推理文庫)

エルサレムから来た悪魔 上 (創元推理文庫)

エルサレムから来た悪魔 下 (創元推理文庫)

エルサレムから来た悪魔 下 (創元推理文庫)

 ……ときは一一七〇年。それは絶叫の年であった。王は大司教を排除せよと叫んだ。騎士たちが聖堂の床石の上でその大司教トマス・ベケットの脳天をかち割ったとき、カンタベリーの修道士たちは金切り声をあげた。
(本書上巻p14より)

 2007年CWA最優秀歴史ミステリ賞、2008年スー・フェイダー歴史ミステリ賞受賞作品です。
 とはいうものの、細かいようですが、私の考えでは本書は歴史ミステリというよりも12世紀のイングランドを舞台とした時代ミステリと読んだ方が妥当なようにも思いつつ、だからといって上記の受賞が相応しい作品とはいえないとかそんなことをいうつもりはさらさらないのであしからず*1
 さて。肝心の物語のほうですが、1171年のイングランド。トマス・ベケット大司教殺害の衝撃も冷めやらぬ王国を、ケンブリッジで起きた子供の連続殺人・失踪事件が揺るがしていた。犯人はユダヤ人だとする声が広がり、ユダヤ人に対し私刑や排斥運動が起きるようになる。富裕なユダヤ人を排除すれば国の財政が破綻し、だからといってかばえば教会からの破門は避けられない。進退窮まったヘンリー二世は事件を解決するためにシチリア王国から優秀な調査官と医師を招き事件を解決しようとする。若き女医アデリアは事件の真相を明らかにすることができるのか……といったお話です。
 本書は12世紀のイングランドが舞台となっていますが、そうした時代設定が本書の物語には存分に活かされています。教会と王権の対立。ユダヤ人への偏見。修道院と女子修道院の対立。女性蔑視。そうした様々な価値観が交錯し対立するなかで、主人公である女医アデリアが求めるものは「真実」です。それは、彼女の医師としての職業倫理、というよりプライドから生まれる想いです。さらにいえば、ただ単に女性であるというだけで蔑まされることからくる正当な反発心ゆえの、彼女自身の戦いにおける武器であるともいえます。そんなアデリアの人物造形も極めて興味深くて、極めて優れた医師でありその職業に対して強い誇りを持つ一方で、若さゆえに恋愛との板ばさみに苦しんだりもします。医師という職業に特化した人生を歩んできたがために世間知らずな面もあれば、若さゆえの生意気さもあったりと、決して頭でっかちな堅物というわけではありません。
 下巻巻末の訳者あとがきでも触れられていますが、本書の面白いところは歴史と法医学とが効果的に融合されている点にあります。アデリアは医師であり、生きた人間の治療を行うこともできますが、その能力の真価は死者を前にしたときに発揮されます。もちろん12世紀という時代設定なので、現代の目から見てそんなに難解な診断を下すことなどできません。ですが、だからこそ、読者にとって優しい法医学ミステリであるといえます。また、法医学の観点から真相を明らかにするということは、科学的な視点で物事を判断するということでもあります。そうした判断は、本書のように宗教的価値観が圧倒的優位を誇っている時代においては異端にも思えます。ですが、そんなアデリア自身も必ずしも宗教を否定しているわけではありません。つまりは存在と当為の問題ということになると思うのですが、宗教は人間に「こうあるべし」という生きる指針を、ときには救いを与えてくれます。ですが、度をすぎると、そうした価値観にそぐわない出来事は起きるはずもない、ということになります。それは、真実を見失うことにつながります。
 とはいえ、本書は犯人探しのミステリとしては面白味に欠けます。なんとなれば、せっかくの法医学ミステリなのに、真犯人にたどり着く過程がサスペンス的な展開によってもたらされるからです。これは少々もったいないように思います。ですが、このあとの展開は個人的にとても興味深かったです。
 アデリアに期待されているのは死者を診る医者、つまり検視官としての役割です。それは真実を明らかにすることができる職業ではあります。ですが、それで事件を解決することができるかとなると、それはまた別の問題です。ネタバレになるので詳細を述べるわけにはいきませんが、本書の上巻で重要な人物がまさかの死を遂げます。この人物の重要性は論を待たないところではあるのですが、ミステリ論的に考えますと、この人物の真の重要性は真実が明らかとなったときに判明します。”真相を明らかにすることと、事件を解決することは、似ているようで違います。”*2といいますが、アデリアには真相を明らかにすることはできても事件を解決することはできないのです。それは何ゆえか? ではどうやって事件は解決されたのか? それは本書を読んでのお楽しみということで。歴史好きやミステリ読みにオススメしたい作品です。