『女王国の城』(有栖川有栖/創元推理文庫)

女王国の城 上 (創元推理文庫)

女王国の城 上 (創元推理文庫)

女王国の城 下 (創元推理文庫)

女王国の城 下 (創元推理文庫)

 第8回本格ミステリ大賞小説部門受賞作品です*1

 町か街か。どちらでもいい。
 私は、不思議なマチが出てくる小説が好きだ。とりわけ、そこからどうしても出られない不思議なマチが。読みながら、胸がどきどきして、時には呼吸さえ乱れ、発熱しそうになった。夜、ベッドで思い出しては、夢の中でそこに迷い込み現実の世界に帰ってこられなくなったらどうしよう、と怖くなったり、学校の還り道でいつもの風景が知らないうちに別のものにすり替えられたらどうしよう、と不安になったりした。今でも、その頃の楽しい恐怖をひょいと記憶から拾い上げて、こっそり楽しむことがあるが――まさか本当にそんなマチに閉じ込められるとは。
(本書下巻p154より)

 目覚しい成長を遂げた新興宗教団体〈人類協会〉の聖地、神倉。大学に姿を見せない江神を心配した推理小説研究会が江神の下宿を訪ねてみると、そこには神倉に向かったと思われる痕跡が残されていた。江神の身を案じた英都大学推理小説研究会の面々は江神に会うべく神倉へと向かうが……。といったお話です。
 「学生アリス」シリーズ4作目は文庫にして上下巻で前作よりもさらに大作です。物語の長さだけでなくクローズド・サークルのスケールも1作目から徐々に大きなものになっています。キャラクタの成長と物語のスケールとが比例することによる成長物語として読み解くのも本シリーズの大事なポイントです。
 本書は3作目『双頭の悪魔』から15年7ヵ月後の刊行となりましたが(笑)、作中内の時間はおよそ1年しか経っていません。なので、作中外と作中内とで時間の流れに大きな開きができてしまったのですが、そのことが本書では逆に巧みに活用されています。〈女王国の城〉の中で起きる殺人事件は通常の世界の常識とは違った道理によって支配されている世界です。そうした宗教観によって生まれる盲点こそが本書のトリックの中核を担っています。それによって、クローズド・サークルの内と外の常識の違いというものが浮き彫りとなるのですが、私たちが抱いている常識もまた絶対的なものではありません。例えば、〈人類協会〉の思惑について国家転覆やクーデターといった仮説が出されるもリアリティが感じられないなどと却下されたりします(上巻p384以下参照)。当時としては確かにその通りです。しかし、オウム真理教によって引き起こされた事件を経験してしまった今の我々の世代にとってのリアリティは異なるものになってしまっていることは明らかです。マリアが大阪万博を懐かしむように読者は90年の日本を懐かしみます。バブル景気がはじける前と、それがはじけた余波をかぶり続けている今では様々な常識が変化しています。
 アリスとマリアの間で交わされる淋しさについての会話も当時の世相を何となく思い起こさせます。UFOは遠い星から飛んできていると最初に言い出した人もそれを信じる人も寂しい人だと言うマリア。それに同意し、人はいつも寂しい生きものだと語るアリス。

「どうして、あらかじめ寂しいの?」
「個体だから。分かれてるから」
(本書上巻p157より)

 こうした会話は、ATフィールド=「心の壁」とした『新世紀エヴァンゲリオン』を相当に意識したものだと思われますが、閉鎖状況とは何かを突き詰めて考えると個人の孤独に行き着くのはごく自然な考え方だと思います。だとすれば、最小のクローズド・サークルは個人の心であり、それを推理によって開かれたものにするのが探偵の役割であるといえるのかもしれません。それはあたかもATフィールドを中和する力を持つエヴァの姿とかぶって見えなくもないです(ときに暴力的な行動に出ることまで含めて)。
 閑話休題です。これまでの3作とは異なり、本書は完全に人為的に作られたクローズド・サークルでの殺人事件です。それだけに、そのクローズド・サークルの根幹である〈人類協会〉の思想や施設について念入りに描かれています。本書は、オウム真理教との距離感が絶妙です。〈人類協会〉については宗教団体としながらもUFOに乗った超越的存在がやってくることを信じるという平和的な団体でありジェントルでフレンドリーな態度が強調されています。その一方で、瞑想中に唱えている言葉はオーム、オームと聞こえる「Om」(上巻p199より)だったりします。90年のあの頃と、94・95年の「あのとき」へと向かう予兆を本書は巧みに描き出しています。
 また、人為的なクローズド・サークルであるだけに、当然ながらそこからの脱出も試みられます。思索とアクションとで読み手を飽きさせることなく伏線を巧みに張って論理的な解答が導き出されます。無関係と思われた過去の密室殺人事件と現代の事件とが有機的に関連付けられ、〈女王国の城〉だからこその犯罪の動機が解き明かされる解決編は抜群のカタルシスです。
 本シリーズは5部作とのことですので、あと1作で完結ということになります。その構想はまだおぼろげなものとのことなので刊行がいつになるのか分かりませんが、これ以上のクオリティのものを書かないといけないとなると相当な困難が予想されます。ゆっくり時間をかけて最高の結末を描いて欲しいと思います。
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