「よつばとうそ」に見る「しつけという「日常」」

都条例改正をきっかけに、「規制」と「法」についてつらつらと書いてきました。
絶望した!フィクションに現実の法律を持ち込む東京都に絶望した! - 三軒茶屋 別館
「規制」を「法」が行うということ - 三軒茶屋 別館
フジモリの基本的なスタンスは、表現の「規制」を「法」が行うことそのものに対して、あまり宜しいものじゃないなぁ、と考えています。
それは、規制対象がどのようなものであれ、です。*1
不快(←ここが、まず「主観」的な判断基準ですが)なものは規制して、「誰かが」、子どもの目の触れないところに置く、という考え。いや、その善し悪しを判断し子どもにルール付けるのは、身近なところでは、まず「親」なんじゃないの、という単純な疑問が原点です。



そういった考えに至ったきっかけの一つは、先日発売された『よつばと!』10巻のなかの一話、「よつばとうそ」でした。
よつばと!』10巻もまた相変わらずの面白さで、すねるよつばに慌てるやんだとか、ジャンボのヒゲとか、照れる風香とか、あのキャラの再登場とかカバー外した表紙の紙質が変わってる細かさとか、いろいろいろいろ語りたいところありますが、個人的にはこの「よつばとうそ」がこの巻の白眉だと思っています。
よつばとうそ」では、遊んでいて食器を割ったよつばが、とーちゃんにウソをつくところから始まります。

とーちゃんは、よつばの言い訳(ウソ)を黙って聞いたあと、とある場所に連れて行きます。

「よつばのうそつき虫を退治する」ととーちゃんに「罰」を与えられるよつば。

反省したよつばを、とーちゃんが諭します。

お茶碗割ったのは 別にいい
窓ガラス割ったのも コーヒーこぼしたのも 別にいい
でも 嘘はつくな
な?
(P167)

とーちゃんは、よつばを仁王さんのところに連れて行く前に、「こないだ嘘はつくなって怒ったんだけどなー」と言っていますが*2、おそらくこれは、9巻でのこのエピソードだと思われます。

「親が子供を怒る」という、何気ない日常のひとコマですが、だからこそ、深く印象に残るエピソードでした。
昭和世代のフジモリもそうですが(笑)、読者の中には今回の話はある意味「当たり前」の話だ、と受け取った方もいると思います。実際、フジモリもこの話でとーちゃんがやったようなことは親にやられてますし、いわゆる鉄拳制裁のようなものもありました。しかしながらフジモリがそれを理不尽だと思わなかったのは、「やってはいけないこと(=悪いこと)」をやったことに対する「罰」だということを理解していたからだと思います。
「好嫌」ではなく、「善悪」という「ルール」をきちんと身につけさせること。そしてそれは「親のために」ではなく、「子どものために」行われていること。
以前フジモリが書いた記事で、

 ブチャラティは、「何の関係も無いはずのナランチャを、マジになって怒」りました。常に相手の立場に立って物事を考える。そして、相手が間違っているときは「叱る」のではなく、「怒る」。相手に「自分のことを考えてくれているんだ」と思わせないと、「怒り」は効果がありません。「自分が気に入らないから」という利己的な理由で部下を叱責する上司はリーダーとして失格です。当たり前のようですが、相手のことを我が身のように思う気持ち、これがリーダーに必要な資質なのです。
「ブローノ・ブチャラティに学ぶリーダー学」より)

こんなことを言いましたが、まさに親が子どもに対して「子どものために怒る」という行動は、「子どものことを思えばこそ」でもありますし、同じ「怒る」にしても「子どもの行為にイライラするから怒る」などという「自分のために怒る」というのとは真逆な感情だといえるでしょう。
よつばに対しての「罰」にはとーちゃんからの「愛情」が汲み取れますし、何度も書くようですがある意味「当たり前のこと」とも言えます。
そしてその行為を「当たり前」と受け手(フジモリ)が思うことがすなわち、冒頭の「規制」について「ん?ちょっと違うんじゃないか?」と思うことにつながっているのかな、と考えます。
よつばと!』を読むと「当たり前」のことが「特別なこと」に思えてくるのですが、そういう意味で、まさに今回は考えさせられました。
そしてまた、そういった「当たり前のこと」を一つの「お話」として昇華する、そこが『よつばと!』が『よつばと!』たる所以であり、「日常の再発見」という極上のエンタテイメントになっているのだと思います。
よつばと!』すげーなー。(よつば風に)
【ご参考】『よつばと!』に学ぶ「幸せの沸点」 - 三軒茶屋 別館

よつばと! 10 (電撃コミックス)

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*1:個人的には、「不快な対象は規制してよい」という考えそのものがあまりよろしくないと思っていて、例えば「幸せいっぱいの夫婦を見ると不快になる」「正社員として働いている人を見ると不快になる」など、世の中の多数派の動向により「不快なもの」が際限なしに増える、あるいは自身がいつか「対象」になる、という危険性を孕んでいるから、という理由もあります。

*2:P150