『“菜々子さん”の戯曲 Nの悲劇と縛られた僕』(高木敦史/角川スニーカー文庫)

 ミステリには一般にフェアプレイというルールがあるとされています。で、具体的にフェアプレイとはどういうことをいうのかとなるとなかなかに難しい問題なのですが、一般的には「必要な手がかりは示すべし」と「三人称の地の文に虚偽の記述があってはならない」という二つの原則のことをいうとされています。
【参考】「フェアプレイと叙述トリック」についての落穂拾い - 三軒茶屋 別館
 ここで問題としたいのは後者の原則についてなのですが、三人称の地の文において何故虚偽の記述があってはならないかといえば、それがときに「神の視点」とも例えられる上位からの記述だと原理的に考えられるからです。そうした上位視点からの記述に虚偽があっては、下位の存在である登場人物と彼らに感情移入することで物語をなぞっていく読者が真相にたどり着くことなどできようはずがありません。そのため、三人称の地の文においては虚偽を記述することが否定されることになります。
 では一人称の場合には?となりますと、これがまた厄介です。一人称の語りである以上それは三人称のように上位者の語りではないわけで、そうである以上は、そこに語り手自身の意図や誤解といったものによる虚偽が混入していたとしても、そのこと自体は別に不自然でもなんでもありません。しかし、だからといって一人称描写における虚偽の混入を全面的に肯定しまいますと、その物語はミステリとして成立し得ないでしょう。そこで、一人称の語りにおいては故意に虚偽の描写をしない、ということで妥協するしかないことになります。そうした縛りをかけたとしてもなお、やはり一人称の語りの場合にはそれを全面的に信用してしまってよいのかという問題が常につきまとうことになります。つまりは、「信用できない語り手」なのです。
 本書は、一切の体の自由を失ってしまった”ぼく”こと坪手くんに対して菜々子さんが一方的に語りかけるパートと、それについて僕が考えるパートという二つのパートに大別することができますが、特に重要なのは菜々子さんの語りのパートです。それは上述のように「信頼できない語り手」による語りなのですが、本書の場合にはそうした不信用性というものがむしろ積極的に利用されています。
 ぼくにとって菜々子さんはとても大事な語り手で信用しないわけにはいかないのですが、その一方で、彼と菜々子さんの間には3年前の”ある出来事”が横たわっていて、そのことについて、彼はどうしても菜々子さんを疑わないわけにはいきません。信じることと疑うこと。ぼくの中で生じる二つの気持ちの葛藤と緊張感。それが本書のミステリとしての、あるいはサスペンスとしての醍醐味です。
 そんなぼくと菜々子さんの間の緊張感をさらに盛り立てているのがやはり3年前の、すなわち小学校時代のいじめが絡んだクラス内での学校行事などにまつわる人間関係(主に男子)とその中でのぼくの身の処し方です。一般に男子と比して女子の人間関係の面倒さばかりがとかく強調されがちですが、こうしてみると男子の人間関係だってそれなりに面倒だと思いますがいかかがものでしょうかね?
 小学校時代のクラスでのエピソードなど、ともすればじめじめとした湿っぽいお話になりがちですが、それがミステリの文脈で語られることによって心持ち乾いた物語に仕上がっています。また、ぼくと菜々子さんとの間の推理の駆け引きは恋の駆け引きにも通じるものがあって、これもまた面白いです。とてもパーソナルな推理劇なのでスケールは小さいですが、でも濃密です。基本的に小学校時代のエピソードは嫌なものばかり続きますし(ただし菜々子さんとのものは除く)、おまけに菜々子さんは陰険でぼくは疑心暗鬼とネガティブ要素満載なのでオススメはしづらいのですが(苦笑)、読後感はなぜか爽やかです。
 ちなみに、p78で菜々子さんが僕に話そうとした小説って、おそらく『ハローサマー、グッドバイ』ですね。とっても面白いお話なので興味のある方はぜひ読んでみてくださいませ。また、p136〜137で語られている映画は『レナードの朝』ですね。とても考えさせられる映画ですので、こちらもお時間があればぜひ観ていただきたいです。
【関連】『“菜々子さん”の戯曲 小悪魔と盤上の12人』(高木敦史/角川スニーカー文庫) - 三軒茶屋 別館