『カケスはカケスの森』(竹本健治/徳間文庫)

 本書は、「あなた」という二人称で描かれた不思議なミステリです。もっとも、ミステリと呼ぶには幻想的な雰囲気が少々強すぎますが。
 普通の小説は一人称か三人称で語られていますから、二人称による語りというのはかなり特殊なものです。ただ、そうはいっても世の中変わったことをやりたいと考える人はいるものですから、二人称の小説というのは確かにとてもレアですがないことはないです。
 二人称ということは、作中の語り手=読者ということになります。もっとも、読者と作中の人物とがまったくの同一人物になることなど不可能ですから、そうした設定はともすれば押し付けがましいものになりかねません。ある特定のシチュエーションを前にして「あなたはこう思った」みたいな心理描写を書かれても、それを読んでる読者が必ずしもそのように思うとは限りません。二人称による語りは、一見すると読者を作中に入り込ませるための手法のように思われますが、そうした試みは大多数の読者にとっては余計なお世話的なものなってしまうのではないでしょうか。というわけで、本書を読むのは少々しんどかったことをここに告白しておきます。ってか、二人称小説というのはおしなべて読みにくいものですけどね(笑)。
 二人称の小説というのは、抽象的には語り手=読者ということになりますが、実際には両者はまったく異なる存在です。ただ、少しでもそのように感得してもらえるよう、多くの二人称小説の主人公・語り手には名前がありません。「あなた」や「お前」など、呼ばれ方はさまざまですが、いずれにしても作中において語り手はそうした指示語で一貫して呼ばれますし、それによって語り手の名前は読者に伏せられます。名前が明らかになってしまうと語り手=読者というせっかくの工夫・前提があっけなく崩れてしまうからです。ところが、本書の場合は語り手である「あなた」に穂高桜子という名前が与えられていて(もちろん女性)、24歳という設定も明示されています。これは珍しいです。っていうか、初めて読みました。名前や年齢・性別といったものまで付与されているのなら、なにゆえ本書を二人称で語る必要があるのでしょうか。普通に「わたし」による一人称語りで十分なように思うのです。しかしながら、それをしなかったのにはふたつの理由があると考えられます。
 ひとつは、本書には「あなた」という二人称の語りに混じってときどき「わたし」にという謎の語り手による語りが挿入されています。それとの区別を明確にしたかったというのはあるでしょう。「わたし」が誰なのかは物語を最後まで読まなくては分かりません。しかし、「わたし」が「あなた」でないことは間違いありません。なぜなら「あなた」は「あなた」だからです。もし「あなた」が「わたし」だとすれば、それは二人称の語りのルールを破ることになるからです。二人称のルールとは何でしょう? これについてはまったくの私見なので異論反論はどしどし募集しますが、一人称や三人称の語りの場合、「言い落とし」を基本とした、作者が作中の登場人物を無視して読者に仕掛けるトリック、いわゆる叙述トリックと呼ばれるものが一部のミステリにおいて用いられることがあります。こうしたトリックについての是非はここでは置いときますが、そうしたトリックがなぜ成立するかといえば、一人称にしろ三人称にしろ、そこで語られる人物たちの心情や行動は読者からしてみれば観察対象に過ぎないという側面があるからです(あくまでも一面ですよー)。だからこそ叙述トリックというものが成立してもよいと思うのです。ところが、二人称は語り手=読者であることを要求します。しかし、当たり前のことですが読者は「あなた」ではありません。そんな中、どうやって読者が「あなた」になろうとするかといえば、作中の「あなた」についての描写、「あなた」に語りかけてくる人物の言動、「あなた」の視野に入ってくる情景などから「あなた」というものを作り出して、それに入り込んでいくわけです。いわば、作者がそうしてくれと言うので仕方なくそうするわけです。にもかかわらず、そこで言い落としによる叙述トリックなぞを仕掛けても「そんなの最初から言っとけよ」という話になるだけで、おそらく読者は何の感銘も受けないのではないでしょうか。もちろん、小説とは元来自由なものですから、やりたければやっても構いませんが、少なくともミステリではやったらアンフェアだと思います。……話がかなり脱線しましたが、つまり「わたし」と「あなた」を明確に分けるために二人称が使われているのだと思います。
 もうひとつは、作中の雰囲気との関係です。冒頭にも述べたように、本書はかなり幻想的な雰囲気の漂うミステリです。そうした雰囲気というものを真に感じるためには、どっぷりと物語の空気に浸かってしまっては駄目で、どこか信じられないような、上から目線みたいな部分があるのが本当だと思います。そうしたときに、二人称という、一見すると読者を物語りに入り込ませるためのようでありながら実はそうでもない、という手法は案外適しているようにも思います。また、(ネタバレ伏字→)。多重人格という犯人の特性を読者に掴んでもらうために、読者と穂高桜子を「あなた」という一個の人格で束ねたかったという狙いがあったのではないかと邪推しています(←ココまで)これが当たってるのかどうかは分かりませんけどね(笑)。
 何といいますか、物語としては正直それ程面白いとは思いませんでしたが、二人称という工夫について考えさせられたという意味ではとても有意義でした。極めて個人的な判断基準ながらそれなりに評価している一品です。品切れ本で入手困難ということもあってあまりオススメはしませんが、気が向かれたら是非(笑)。
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