『我らの罪を許したまえ』(ロマン・サルドゥ/河出書房新社)

我らの罪を許したまえ

我らの罪を許したまえ

 献本いただきました。どうもありがとうございます。

「私は世界で新たな狂人になるだろうと、主はおっしゃいました」ギは考えた。
 ギには分かっていた。自分が発ったあと、鮮烈な噂がたち、自分のことが田舎の語り草になるだろうと。――ある司祭がどこからともなくやって来た。この常軌を逸した司祭は、粗暴で危険で呪われた村人たちが住む土地に行くことを承諾したという。司祭はどこか医者のようでもあり、魔法使いのようでもあり、魔術師のようでもあった。……そして、物語から抜け出した登場人物のようでもあった、と。
(本書p82より)

 中世のフランスとイタリアを舞台にした宗教ミステリとでもいうべき異色の作品です。
 1284年、南フランスの司教区で司教アカンが何者かに惨殺される。シュケ助任司祭は司教を埋葬するため、そして謎に満ちた司教の過去を知るため、パリへ向かう。時を同じくして新しく着任した司祭アンノ・ギは、呪われた村に赴き村人に正しいキリストの信仰を取り戻させようとする。一方、ローマ教皇庁では不祥事を起こした息子アイマールを救うため、その父親である高名な騎士アンゲランが教皇庁内の陰謀に巻き込まれる。それによって命は救われたアイマールだが、さらなる陰謀のために拷問を受け……。といったお話です。
 作中でも述べられているとおり、この時代の教会は微妙な時期にさしかかっています。十字軍によって多くの異端者を根絶やしにしましたが、代わりに科学や知識といったものが教会の新たな敵として台頭してきます。未開の地において布教をしようとする際に、合理的な思考や科学についての知識は、迷信を打破するための武器としてとても有効に機能してきました。しかし、科学的思考や技術の進歩によって教会の権威を脅かされる危険が生じ始めます。つまり、神を論証し否定しようという考え方が新たな異端として立ちはだかってくるようになってきます。そうした教会が抱える危機と、それに対抗するための陰謀が、多視点描写による群像劇によって描かれています。ミステリ的な分類としては、ハウダニットやフーダニットやホワイダニットといった要素的な謎解きよりも、そもそも何が起きたのかというホワットダニットの観点から読み解くべき物語だといえます。
 本書はとても凝った構成が採用されています。事件そのものは1284年に起きた司教が被害者となった殺人事件に端を発しています。それらの出来事が1290年に開かれた宗教裁判によって明らかとされていることが分かります。しかも、その宗教裁判の記述のところどころに現代語に書き直された歴史的文献からの引用が挿まれています。このことは、本書で語られている事件の真相と、現代に残されている歴史的文献の内容とが必ずしも直結するものではないことを表わしています。つまり、真実が歪曲されている可能性が露骨に示されているのです。
 裁判とは、事実を明らかにするための場です。そこでは、本来であれば「〜であった」という事実のみが求められます。その一方で、宗教においては「〜であるべし」という当為が求められます。そんな事実と当為とが衝突するのが宗教裁判です。そして、そこでは本質的に事実よりも当為が優先されます。教会が大きな影響力を持っていた時代では、事実も真実も歴史も教会によって作られてきました。異教徒=知識人という時代を迎えても、教会のそうした姿勢は変わりません。聖書の一貫性を維持しみずからの唱える教義を守るために様々な手を打ちます。各視点人物の動きにはそうした教会の活動がそれぞれに通奏低音となっています。そして……。
 アンノ・ギの布教活動。シュケによる司教の過去の探索。アンゲランが教会から命じられた領地の買収。アイマールが受ける拷問と洗脳。それぞれのエピソードがそれぞれに闇を描きながら、やがては一点へと収束します。宗教が持つ様々な側面が凝縮されたその結末は無残にして凄惨なものでありながら、えも言われぬカタルシスに満ちています。
 宗教という日本人には馴染みの薄い題材で、物語の全体像もなかなか見えてこなくて、おまけに雰囲気も最初から最後まで暗くて、お世辞にも読みやすいお話とはいえません。ですが、一読の価値ある本だと思います。オススメです。