『うみねこのなく頃に』で考える法廷ミステリ的証明の諸問題
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そんな『うみねこ』の法廷ミステリとしての一面・証明の諸問題について、本記事ではささやかな考察を行なってみたいと思います。
(以下、Episode3までプレイ済みであることを前提に長々と。)
”悪魔の証明”が持つ2つの意味
”悪魔の証明”は作中に何度も登場する最重要ワードです。魔法の存在を肯定させようとする魔女ベアトリーチェの拠り所にして相応しい理屈です。この”悪魔の証明”ですが、作中では、
何かの理由があって、こっそり上陸してずっと隠れているのかも。……悪魔の証明ってヤツっすよ。いることを証明するのは容易い。ベアトリーチェってやつが、俺たちの前に現れて挨拶すりゃあ解決する。でも、19人目がいないことを証明するのは不可能っすよ。
(Episode1 『黄金伝説』より)
というように、消極的事実の困難性を意味する言葉として使われています。ところが、例えば”悪魔の証明”をWikipediaで引いてみますと、
1.所有権帰属の証明の困難性を比喩的に表現した言葉
2.事実の有無に争いがある場合、多くの場合、「積極的事実」(ある事実が存在すること)を主張する者に証明をさせるべきであり、「消極的事実」(ある事実が存在しないこと)を主張する者に証明をさせるのは妥当でない場合が多いということを比喩的に表現した言葉
(悪魔の証明 - Wikipediaより)
というように、積極消極を問わず証明困難な場合を示す言葉としての意味もあります。実際、作中でも、
悪魔を証明しちまった! あんたの勝ちだ…!
(Episode2 『結婚指輪』より)
というように、”悪魔がいる”という積極的事実が証明されたシチュエーションで”悪魔の証明”という言葉が使われています*1。このように、『うみねこ』での悪魔の証明という言葉は、基本的に2.の意味で使われていながらも、1.の意味で使われていることも結構ありますので、両者の混同には気をつけなければならないでしょう。
法律を学んだことのある方なら心当たりが大有りでしょうが、”悪魔の証明”という言葉は所有権帰属の証明の困難性を表現する比喩として用いられています。なにゆえ所有権が悪魔に例えられるのでしょうか。両者の共通性とは何でしょう。それは、悪魔も所有権も概念としては存在していても現実には存在していないという点にあります。
悪魔については作中の以下の言葉で説明が足りるでしょう。
信じろ。疑うな! 魔女などいない!
この世にそんなもの、存在するわけもない。
それが存在できるのは、現実の狭間だけ。
…その隙間にて、真実の暴風から必死に身を守って縮こまり、虚偽と幻想で食い繋いでいる時だけ、蜃気楼のように細々と存在できる脆弱な存在なのだ。
(Episode3 『19人目の可能性』より)
一方、所有権については『攻殻機動隊』のバトーと素子の次のような会話が参考になるでしょう。
「お前‥‥人権ってコトバ知ってる? 知らねえだろうなあ‥‥」
「モラルと現実の界面で生まれた言葉ね 理念は判るけど見た事ないわ…」
(『攻殻機動隊』(士郎正宗/講談社)p331より)
つまり、モラルと現実の界面に生まれるのが人権ならば、禁忌と現実の界面で生まれるのが悪魔ということになるでしょうか。いずれにしても、現実に存在しないものの証明は困難を極めます。その意味で悪魔と所有権は同じです。
しかしながら、悪魔と所有権はやはり同じものではありません。確かに両者とも現実には存在しないものではありますが、所有権の場合には国家権力がその存在を認め、法による実効性を与えています。所有権であれば、動産の場合には占有(民法188条)、不動産の場合には占有または不動産登記(判例)によってその所有権の帰属が推定されます。このように、所有権の存在証明を助ける制度によって所有権は単なる概念以上のものとして存在できるのです。
しかしながら、現実には存在できない悪魔であっても、フィクションの世界であれば容易に存在できます。フィクションの前には”悪魔の証明”など何の意味も持ちません。だからこそ、戦人は魔女との戦いを強いられることになるのです。
検察官と弁護人の立証作業
人間の手では不可能とされる事件を盾にして、魔女ベアトリーチェは魔法の存在を認めさせようとします。ベアトリーチェはいいます。すべては妾が魔法でやったことだと。それを立証する必要もない。なぜなら魔法は何でもできるのだからと。
対する戦人は、何とかして目の前の不可能犯罪を人間の手によるものだと説明して、魔法の存在と魔女の存在を否定しなければなりません。
ある事象の発生根拠について、魔女はそれが魔法によって行なわれたことを主張し、さらにはその立証を必要としないことまで宣言します。なぜなら魔法だからです。通常のミステリでもよくあるシチュエーションではありますが、普通の探偵役であれば詳細に事実を検証しありとあらゆる可能性を検討した上で、真犯人を特定し冤罪を防がなくてはなりません。場合によっては刑事訴訟と同様、「合理的な疑いを差し挟まない程度」の証明を行なう必要もあるでしょう。
ところが、『うみねこ』の場合には少々事情が異なります。戦人が対峙しているのは魔女です。魔法の存在を否定することさえできればよいのであって、必ずしも真犯人を特定する必要はありません。魔女の存在について疑いを差し挟む程度の論証さえできればよいのです。
「な、ならば…、その鍵を奪ったのは誰だというのか! 答えて見せろ! お前が今度は復唱して見せろ…!!」
「そうだな、お前にばかり復唱させた。たまには俺が答えなきゃならないだろうぜ……。
「だが拒否するッ!! 俺の勝利条件は魔女の存在を否定することだぜ。貴様の魔法による不可能犯罪を、人間の手でも可能であることを証明するところまで!!」
「俺はお前の密室を人間にも可能だと打ち破った。だが、だから誰が犯人だと具体的に追求はしない。」
(Episode2 『新しいルール』より)
これは、刑事事件において被告人の無罪を主張する弁護人のスタンスと類似のものだといえます。刑事事件の弁護人の役割とは、検察官側が黒とする主張を灰色にすればよくて、積極的に白であること、つまりは被告人の無実であることや他に真犯人がいることまで立証する必要はありません。このように考えると戦人の戦いは楽なものであるかと思われますが、実際にはそうではありません。なにしろ相手は魔女です。”悪魔の証明”によって立証不可能な事柄まで立証不要の一言で立証してしまいます。ただし、相手が”悪魔の証明”を用いてくるのであれば、戦人だって”悪魔の証明”を用いてはいけないという理屈はありません。物語はここで可能性と可能性のぶつかり合いとなります。つまり、どんなに荒唐無稽なものであったとしても一縷の可能性として主張できるのであれば、それは真実足り得るのです。
このように戦人の立場は、「真犯人は誰か?」という問題意識に立つときには検察官の見方が求められる一方で、「その殺人の犯人は魔女か? それとも人間か?」という問題意識に立つときには弁護人の見方が求められることになります。それはときに相反することもあれば、真実を求めて共闘することもあります。魔女という対戦相手がいるのみで裁判官のいないこのゲームにおいて、戦人はどのような立ち位置を見い出すことになるのかも注目されるところです。
赤き真実とフェアプレイ
双方が互いの立場からの主張を行い、その立証を”悪魔の証明”によって拒否するとどうなるか。結果は永遠に続く水掛け論です。これでは魔女と人間の決着はつきません。そこで魔女側が持ち出したのが赤き真実です。
「妾がどのような魔法の一手を仕掛けようとも、そなたは常に”情報不足”や”根拠否定”を繰り返すことで延々と逃げ続けることができる。」
「…これでは最終的に妾が勝つことが変わらぬとしても、あまりに退屈を極める。……その為、妾はそなたが望む”情報”と”根拠”を与えてやろうと思う。」
「しかし、そなたは妾の言葉ひとつひとつを疑って掛かるだろう。それ自体は悪いことではない。妾もそなたを屈服させるためにあらゆる手を指す。互いに最善手を探りあうその姿勢は嫌いではない。」
「……しかし、それではゲームにもならぬ。だからこのルールを設けた。」
「妾が赤で語ることは全て真実!疑う必要が何もない!」
「それを信じろというのか……!」
「妾はそなたとゲームをしている。ゲームのルールは神聖!! それを軽んじる者に参加の資格はないッ!!
(Episode2 『新しいルール』より)
魔女が持ちかけた真実のルール。これは、ミステリで必要とされるフェアプレイが『うみねこ』なりに顕現されたものだと理解することができます。ミステリにおけるフェアプレイとは何か? いくつかの説明の仕方はあるかと思いますが、ここでは『どんどん橋、落ちた』(綾辻行人/講談社文庫)に述べられている説明で考えていくことにします。
それによりますと、ミステリのフェアプレイ精神として必要とされるのは(1)『必要な手がかりは示すべし』と(2)『三人称の地の文に虚偽があってはならない』の2つとされています。手がかりが必要なのはいうまでもないことでしょうが、(2)のルールが必要とされるのは、原理原則的にすべての真実を知っているはずの”神の視点”に虚偽の記述があっては手がかりの信憑性が揺らぎ推理が成り立たなくなってしまうからです。なので、三人称の地の文では虚偽の記述があってはならないとされるのです*2。
ところが、『うみねこ』の場合に上位視点として存在しているのは神ならぬ魔女です。魔女の言葉をすべて疑えるのであれば、そこには一切のフェアプレイがなくなりますから推理も成立しません。それはゲームでもなんでもありません。そこで、魔女の会話文の中に真実の正当性・客観性を担保する赤字が必要とされることになるのです。
赤字は戦人が唱える荒唐無稽な仮説を切り捨てる役割を果たす一方で、その無情なまでの真実性は、反対に別ルートからの真実への道を示すことにもつながりかねない諸刃の剣なのです。しかも、この真実性が登場人物の駆け引きによって生じてくるというのも面白いです。ゲーム性の担保と小説としての面白さを両立させる斬新な発想には目を見張るものがあります。
ただし、これによって直ちに『うみねこ』にフェアプレイの精神が貫かれているとは断言できません。何といってもまだ途中ですしね。本当に手がかりは出揃っているのか? 赤き真実は本当に真実なのか? すべての答えは完結を待つよりないというのが正直なところです。
赤き宝刀とオッカムの剃刀
このように、赤き真実には諸刃の剣の側面があります。そのため、作中の魔女側も容易には赤き真実を使わないようになります。そこで、伝家の宝刀になぞらえて赤き宝刀という表現が用いられることになります。無限の可能性を断ち切る赤き宝刀。それはまるで、オッカムの剃刀です。
オッカムの剃刀(参考:オッカムの剃刀 - Wikipedia)とは、「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くの実体を仮定するべきでない」という節約の思考方法です。
裁判に例えると、判決を出すのに必要な要件事実だけを考慮して、その他の事柄は事情として考慮の外に置く思考方法だと理解することができるでしょう。充足すべき要件が予め法定されることによって法的安定性が確保されると同時に事実認定の争点も生まれてくるのです。このことからも分かるとおり、オッカムの剃刀とは導き出すべき答えが明らかになっている場合に、そこに至る思考過程を考える概念であって、真実を直接的に導き出すような概念ではありません。なぜなら、推理の条件として何が必要で何が不要なのかは、導き出すべき真実が明らかにならない限り判断不能だからです。
ところが、『うみねこ』の赤き宝刀は、真実性を客観的に保証することによって、無限の可能性を有限のものに限定する作用を持っています。赤き宝刀を信用するのであれば、それによって切り捨てられた仮説は真実の埒外に置くことができます。そこに、赤き宝刀とオッカムの剃刀の違いがあります。
”宇宙人の証明”から”シュレディンガーの猫”へ
既述のように”悪魔の証明”には2つの意味があります。両者を混同しないためには、「証明の困難性」を意味する場合には”悪魔の証明”という言葉を使う一方で、「消極的事実の証明の困難性」を意味する場合には、作中(Episode2『「家具」と「人」』)でも例えられている”宇宙人の証明”に置き換えた方が分かりやすいと思います。
ここでは宇宙人を地球外知的生命体と定義しますが、悪魔に比べれば宇宙人はその現実的存在の存否について議論の余地があるでしょう。このとき、宇宙人肯定派は宇宙人のいる星をひとつでもいいから探し出せばいいのに対し、宇宙人否定派はすべての星をしらみつぶしに探してその存在を否定しなければなりません。つまり、現実的立場であるはずの宇宙人否定派の方が困難な証明を要求されるのです。
こうした理不尽な結論が”宇宙人の証明”の面白がられる所以ではありますが、このように、ある事実の存否が問題になっている場合において、その立証責任は存在を肯定する側と否定する側どちらが負わなければならないのでしょうか。これが訴訟法における立証責任*3の問題です。民事訴訟であれば、公平の観点から立証責任の負担を決めることになります。このとき、「存在しない」よりも「存在する」の方が証明が容易であるから存在を肯定する側に立証責任を負わせる、というのも極めて有力な考え方です。一方、刑事事件であれば、圧倒的に有利な立場にある検察官側に証明責任が負担されることになります。
通常の裁判であれば、主張責任を負うものが立証責任をも負います。なぜなら主張するだけなら誰にでも好き勝手なことが言えますから、立証まで伴って初めてその主張も意味を為すことになるのです。ところが、『うみねこ』の場合には、魔法の存在によってすべての主張が”悪魔の証明”によって立証されてしまいます。
このような場合には、おおよそ2つの対処法が考えられるでしょうか。ひとつは、主張した側ではなくされた側にそれを否定する立証(反証)を求める考え方です。つまり、主張責任と立証責任の分離です。宇宙人のケースで考えますと、一方が「宇宙人がいる」と主張して立証を拒否したとして、もう一方が「宇宙人がいない」ことを立証して決着するのです。極めて不利な条件だと言わざるを得ませんが、可能性があるならば一考する価値はあるでしょう。
もうひとつが立証責任の放棄です。つまりは作中で示されている”シュレディンガーの猫”(参考:シュレーディンガーの猫 - Wikipedia)の考え方です。こちらは実際の裁判ではお目にかかったことはありませんが*4、ミステリでは極めて稀にですがお目にかかることがあります。作中では以下のように説明されています。
「この瞬間、法廷には、あなたの主張とあの子の主張が同時に存在する。……もしも、あの子の主張に耳を傾けたならば、それはあたかも真実に聞こえてしまうかもしれない。見えてしまうかもしれない。
あなたはまさにそれを見せつけられた。」
「………………………。」
「今この瞬間の六軒島には、確かに魔女も魔法も真実として存在するかもしれない。…しかしそれは、猫の箱が開かれる瞬間までの不確定な波動関数の世界。全ての状態が同時に説明できる。しかし、真実はひとつです。
それは観測されることによって収縮し、無数の真実が淘汰されてたったひとつの真実になる。法廷で例えるならば、これは裁判長による判決行為にも似ているでしょう。検察側、弁護側がそれぞれに主張する2つの真実は、判決によって収縮し、1つとなるのです。」
(中略)
「………相反する2つが同時に存在できる世界。そして相反する事実が、互いを否定する理由にできない世界。……理解できましたか…?」
(Episode3 『ワルギリアス』より)
宇宙人のケースで例えますと、宇宙人がいる世界といない世界とがともに存在する世界ということになります。
このように考えると、両者の主張は永遠に平行線をたどったまま収束を迎えないという事態も想定されますが、それを打開する鍵となるのはやはり真実を証明する赤き真実でしょう。戦人の荒唐無稽な仮説を叩き切るそれは、一方で確実に魔女の住む世界をも切断していきます。
……赤を振りかざせば振りかざすほどに。
魔女はわずかずつだが、自らの凌げる現実の隙間を失っていく。
だからこそ、あやふやな情報、……つまり、幻想の余地ある現実の隙間を、無用心に赤で失いたくないのだ。
それが徐々に自分を追い詰めていくと理解しているから。
もちろん、ヤツはそれを認めないだろう。
それを認めれば、自分がこの世に存在してはならない虚数的存在であることを認めたも同然になってしまうのだから。
(Episode3 『19人目の可能性』より)
切るか切られるか。ハッタリ合戦の行き着く先は果たしてどこなのでしょうか?
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