『追想五断章』(米澤穂信/集英社文庫)

追想五断章 (集英社文庫)

追想五断章 (集英社文庫)

 そして芳光は暗闇の中で、自身にも自身の父にも、物語が存在しないことをあらためて噛みしめる。不況の波に抗う生活。目下の最大の問題は、帰ってきて欲しい母と帰りたくない息子の、腹の探りあい。場面場面は恐ろしく緊迫するが、そこには一片の物語も存在しない。
(中略)
 いったい、人間の生き死にに上下があるのだろうか。一篇あたり十万円の金で他人の物語を探す間に、花の季節は移り変わっていく。どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 ひどい虚しさが胸を覆っていく。雨音だけがうるさい夜だった。
(本書p165〜166より)

 大学を休学して伯父の古書店に居候している菅生芳光は、ある女性から奇妙な依頼を受ける。それは、彼女の父親が遺した5つのリドル・ストーリーを探し出して欲しいというものだった。調査を進めるうちに、故人がかつて「アントワープの銃声」と呼ばれる事件の容疑者だったことがわかる。そして、5つの物語に秘められていた真実もまた明らかとなり……といったお話です。
 「小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議からだと思います」*1とは北村薫の言葉ですが、この言になぞらえれば、リドル・ストーリーというのはそうした抗議がもっとも鮮明に現れたものだといえます。なんとなれば、誰もが自身の物語における「死」という結末を読了することはできないからです。
 物語の不在を描きながらも、一方で将来への閉塞感に苛まれている主人公により、リドル・ストーリー一篇一篇を一片としてつなぎ合わせながらひとつの物語を描き出しています。そんな本書は、一風変わった連鎖式の作品として評価することもできるでしょう(【参考】大きな物語と小さな物語と連鎖式 - 三軒茶屋 別館)。
 本書においてリドル・ストーリーは、「読者に委ねて結末を書いていない小説」(本書p36より)と定義されています。これはシンプルなようでなかなか含蓄のある定義だと思います。結末について、あくまでも読者に委ねているのであって、決してその存在を否定しているわけではありません。確かに、”リドル・ストーリーの中には、小説としては魅力的でも適切な結末はあり得ないという作例もあります。”(本書p104より) ですが、そのことは、あらゆる結末の存在を否定する思考停止的な読み方を肯定することとイコールでは断じてありません。読者に委ねる、というのはそういうことでしょう。
 そもそも、「適切な結末」とは何でしょう? 5つの断章を追い求めるうちに浮かび上がってくる「アントワープの銃声」と呼ばれる事件。それは巻末の葉山響の解説でも指摘されているように「ロス疑惑」を想起させる事件です。「疑わしきは罰せず」という法原則からも明らかなように、実際の裁判は白か黒かを明らかにするものではありません。黒かそうでないか、です。真相が明らかにならないまま終結する裁判もまた一種のリドル・ストーリーです。
 リドル・ストーリーと裁判とでは物語と事実というレベルの違いがあります。ですが、実際の裁判においても「きちんとした物語を作ること」が裁判に勝つ方法だといわれています*2。そうだとすれば、受け入れ難い真実は、ときに受け入れやすい=面白い物語と入れ替わってしまう危険性もあることになります。このとき、「適切」とは何なのかもまた切実に問われることになります。
 作中作であるリドル・ストーリーは一篇一篇が驚愕の面白さです。「結末のない物語」として謎物語の魅力を高らかに謳い上げる一方で、物語のない主人公を物語とすることで結末を迎えることの必要性を切実に訴える。そんなアンビバレンツな相克が巧みに描き出されています。オススメです。

*1:『空飛ぶ馬』(東京創元社)単行本版の著者の言葉より。

*2:【参考】『文学界』2009年7月号所収「文学的模擬裁判」など。さらに参考の参考→『勇者と探偵のゲーム』(大樹連司/一迅社文庫) - 三軒茶屋 別館