『舞王―MAIOH』(永田ガラ/メディアワークス文庫)

舞王 (メディアワークス文庫)

舞王 (メディアワークス文庫)

――よいか、舞に必要なのは修験者の心、そして武士の肉体じゃ。いかにたおやかな、天人の舞を舞うていても、心は修験者であらねばならぬ、身は武士であらねばならぬ。道をきわめ、稽古に励み、他のすべてを捨てていどむ禁欲の心、どれほど長い時間、どれほど難しい技でも、見物にその苦しさを感じさせず舞ってみせる強靭な肉体。その二つがなければ舞はできぬ。そしてむろん、ぬしはその二つを持たねばならぬ。
(本書p34より)

 前作『観―KAN』に続く2作目です。舞というテーマの共通性、観阿弥(三郎太夫)や南阿弥といった共通の登場人物など、前作を読んでいた方がより楽しめるとは思いますが、本書だけでも楽しめないことはないので、書店で本書しか見つけられなかったという方もまずはご安心を。
 室町初期、将軍臨席のもと大観衆を集めて行なわれた田楽興行で見物の桟敷が崩れ落ち多数の死傷者が出る惨事が起きる。戦災孤児の浮浪児・犬弥は、どさくさにまぎれて死んだ舞い手・花夜叉の遺骸から美しい紅の衣を奪い取ることで舞の道へと邁進することになるが……。といったお話です。
 前作と比べていろいろと面白かったです。三郎太夫も犬弥も舞の天才という意味では共通していますが、物語の始まりにおける主人公の年齢が本書の方が幼くて、それゆえに悩み多き少年の苦悩というものが補助線となっています。その分、本書の方が読者的には共感しやすいと思います。また、前作ではいまいち把握しづらかった能楽というものが、本書では田楽と猿楽という対立構図によって説明されています。そのため、登場人物が何に命をかけて取り組んでいるのかもまた理解しやすいです。
 自らが志すものと境遇との乖離にあって、いかにして自らが進む道を選ぶか。いかにして自分というものを作り上げていくのか。室町初期という時代と舞という特殊な芸能の世界が描れながらも、本書には普遍的な教訓が描かれています。それは決して嫌味なものではありません。爽やかなものでもありませんが(笑)。「離見の見」という演者としての物の見方・考え方が、一人の若者の自己覚知のための視点描写として用いられています。
 本書では、ときに幻想的な現象によって主人公の運命が切り開かれ舞の道へと導かれていきます。ともすればご都合主義の謗りを免れ得ない物語の進め方にも思えますが、実際にはそんな感じはまったくありません。ひとつには、本書で描かれているのは単に犬弥という一人の若者の物語というだけではなく、室町から現在に至るまでの”舞”の物語だという点にあります。人が芸を作り磨き延々と伝え続けられることで伝統はできあがります。つまり、伝統とは人によって作られるものですが、その一方で、そうした伝統によって作られてしまう人間・導かれてしまう人間というのが存在するのも確かでしょう。
 また、本書は時代小説でもあります。現代に残されている資料を調べて、それでも分からない空白を想像で補うことで物語となるわけですが、そうした時の流れもまたひとつの道です。たとえ分からないことがあったとしても、その道は今に通じていなくてはならなくて、途切れているはずはないのです。だとすれば、主人公の意志の及ばない範囲において、無理な解釈をこじつけずに幻想的な導きによって今への道を指し示すことは、決してご都合主義などではありません。不思議なことは不思議なままに。だからこその物語ですし、それこそが本書で謳われている猿楽にあって田楽にない”物語”の力だといえるでしょう。
 厳しくもあり自由でもあり、ストイックでもありエロティックでもあり、そんな舞の道が、一人の若者の情熱や戸惑いといったものになぞらえるかのように描かれています。芸によって生かされている人間が芸を作る。その芸によって誰かがまた生かされる。そうした一連のサイクルもまた”舞”なのでしょうね。
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