『観―KAN』(永田ガラ/メディアワークス文庫)

観―KAN (メディアワークス文庫)

観―KAN (メディアワークス文庫)

 何が作れるかはわからないが、とにかく、これは勢いだと俺は思っていた。既存の一座にはない強い衝動、なにかを壊し、新しくしたいと思うこの気持ち。それを持っている限りおれは勝てる。勝負事ではないが、そういう気がした。
(本書p82より)

 Wikipediaをそんなに当てにしてはいけないのでしょうが(笑)、それでも、観阿弥 - Wikipediaを読みますと、有名な人物でありながら出自には謎や不明な点が多いことが分かります。そんな観阿弥が17歳だった頃を切り取って物語に仕立て上げたのが本書です。

 この物語の主人公も、そんな時代を全力で駆け抜けた遊芸人の一人です。彼は能楽の大成者として歴史に名を残しますが、そんな「時代を画する」ものを創り出したということは、おそらくそれまでに、人の何倍もの葛藤や苦労、焦り、孤独、もどかしさなどを味わったことでしょう。そんな彼の十七歳の数日を切り取ってみたのがこの物語です。
(本書あとがきp237より)

 17歳に至るまでの観阿弥の出自。遊芸人として猿楽を極め大成したいという情熱を抱くまでの道程が、伝説としてではなく、一人の人間の確固たる物語として描かれています。その一方で、白拍子のあやめとの幻想めいたやりとりを付加することによって、歴史小説として理解されることがないよう配慮がなされている点は個人的に巧みだと思います。
 タイトルの『観』は観阿弥の「観」なことには違いありませんが、演者としての物の見方・視点という意味での「観」でもあります。観阿弥の息子である世阿弥は「離見の見」という言葉を述べていますが、それは、自己の視点から離れて観客の視点に立って自らの演技を見る、ということを意味します。作中で観阿弥は自らのことを薄情だと自覚していますが、それも「離見の見」という観点から自らを客観的に見てしまうがための苦悩でしょう。ですが、すべてを客観的に見るというわけにもいきません。若さゆえの焦り、理解されないことからの孤独などが天才の視野を狭めます。そこに付け込み才能の萌芽を利用し、もしくは摘み取らんとする悪意。それは観阿弥という才能が放つ輝きが呼び込んだものだともいえますし、なにかを壊そうとする者にとって避けられない因果なのかもしれません。
 本書を読んでも、能楽(猿楽)とは何かがいまいちよく分からなくて、それは私自身にそっち方面の素養がないからだといってしまえばそれまでですが(汗)、そもそも若き日の観阿弥自身に、自分が具体的に何をどう演りたいのかがよく分かっていないからでもあります。しかし、だからこそ、純粋に伝わってくるもどかしい情念というものが表現されているようにも思います。
 本書がデビュー作とのことですが、二作目が出るのであれば追っかけてみたいです。
【関連】
『舞王―MAIOH』(永田ガラ/メディアワークス文庫) - 三軒茶屋 別館
『夫恋―FUREN』(永田ガラ/メディアワークス文庫) - 三軒茶屋 別館