漫画家で「在る」ということ。 『バクマン。』5巻書評
- 作者: 小畑健,大場つぐみ
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2009/11/04
- メディア: コミック
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まるで計算されたかのように1月に1巻を発売してから11月の時点で5冊と巻を重ね、展開も一つの山を越えています。
あとはこの勢いがどこまで続くか、漫画家という世界を描くマンガの宿命ではありますが、メタな見方をされてしまうに耐えられる「強度」は持っているマンガだと思います。
さて、『疑探偵TRAP』で見事ジャンプの連載を獲得したサイコー・シュージンのコンビ。
しかし、この巻では「漫画家」という職業のシビアさを思い知らされることになります。
まずは、のっけから連載を勝ち取ったとたんの担当変更。
*1
漫画家と担当は二人三脚というものの、編集者は「サラリーマン」であり、突然の異動や配置換えなど自身の「意志」とは異なる流れに逆らうことはできません。
そしてそれは、「安定」を求める「編集」と、
*2
漫画を「ギャンブル」だと思っている「漫画家」の間の軋轢の火種ともいえます。
*3
書評で何度も引用していますが、
大場先生の感覚として、主人公が漫画家にならなきゃ面白くないだろう、と。「漫画家になりたい少年」の話を描きたかったのではなくて、あくまでも「漫画家」を描きたかったと思うんですよ。
(QuinckJapan2008年12月号P56、担当編集相田聡一インタビューより)
漫画家に「成る」ことよりも漫画家で「在る」ことを描きたいという『バクマン。』というマンガでは、これまでに蒔かれた「ジャンプシステム」という「ルール」や主人公二人の漫画家に対する考え方を伏線として回収するフェーズに移っています。
いわば、「漫画家」をゴールとしたマンガから、「漫画家であり続ける」ためのサバイバルゲームにステージを変えた巻だともいえます。
村上龍『13才のハローワーク』ですら、
好きな雑誌で自分の好きなマンガを描くことが、漫画家として成功したといえる状態だが、それには絵や物語の技術のみならず、読者の傾向や自分のマンガを客観的に分析・理解していることも必要である。
(P104)
と漫画家になるための道筋に対して書かれているだけで、むしろ重要である「漫画家を続けていくための術(すべ)」については驚くほど筆が割かれていません。
もちろん、漫画家が自らを描く自伝マンガ(『まんが道』など)やエッセイでは「漫画家で在るための苦労」について書かれていますが、『バクマン。』ではより込み入った「お金のはなし」なども書かれています。
以前原作者の大場つぐみは
『バクマン。』に登場する「ジャンプ編集部」はあくまでもマンガの中の編集部なので、編集部内のことはフィクションが多くて構わないと思いますが、例えば「(読者アンケートの)10人のうち2人が票を入れてくれれば人気マンガ」みたいな箇所は、できるだけ嘘を書きたくない(嘘では面白くない)ので、編集部にお願いして本当のことを教えてもらい、参考にして書いています。
(マガジンハウス『BRUTUS』2009年6/1号の特集「オトナノマンガ」大場つぐみインタビューより)
と言っていますので、この数字に大きな誤差はないかと思います。こういう生々しい会話を盛り込むことは、作品のリアリティを増すと同時に漫画家を「夢を与える職業」ではなく「ビジネス」と見せてしまう諸刃の剣でもあります。
とはいうものの、そもそものスタートラインで漫画家という職業を「子供たちに夢を与える」という志ではなく「自身の適性を鑑みた結果、漫画家が一番ふさわしい」と割り切って漫画家を目指すサイコー・シュージンたちの物語であったわけで、物語そのものにはあまりブレはないのかな、と思っています。
しかしながら、マンガが読者の共感や感情移入を必要とされている以上、ビジネスライクに「漫画家している」だけではなく、「伯父の意志を受け継ぐ」といった「マンガに賭ける想い」を混ぜることで巧みにバランスをとっているところがこの漫画のうまいところだといえます。
この巻ではまた、サイコーの彼女である亜豆のエピソードも描かれています。
*4
本人はやりたくない写真集。しかし出さなければ声優としての将来がフイになるかもしれない。
「売れるためのショートカット」
本人の努力とは異なった力により「売れる」手段を提示されたら?
この問題については二ノ宮知子『のだめカンタービレ』でも描かれています。*5
この亜豆の葛藤はまた、「マンガは売れるために描くのか?」というサイコー・シュージンたちへの次巻以降の問いかけとして重くのしかかってきます。
自らの目指すものを「夢=目的」として手段を問わずなりふりかまわず目指すこともできず、かといってプロセスを重視し失敗を覚悟の上で一歩一歩歩むことを苦としない忍耐力を持つわけでもなく、自身の好き嫌いを判断基準とせざるを得ない、微妙で中途半端な彼ら・彼女らの生き方。
それはまた、まさに「今」を切り取った『バクマン。』というマンガだからこそ描ける漫画家物語なのかもしれません。
『バクマン。』は「友情・努力・勝利」に沿ってはいるが、それは僕の知る三原則とは違う。しかしその中身は非常に今っぽいと思う。「思惑のある友情、計算された努力、結果の見える勝利」なのだ。それこそが僕よりも若い世代はすんなりと受け入れられる三原則になっているのだと思う。
●『バクマン。』が示す「友情・努力・勝利」の変化とは?|日刊サイゾー
「漫画家で在る」ことを描く5巻では、「漫画家に成る」までの勢いこそないものの、これまでそこかしこでちりばめてきた「ジャンプシステム」というこのマンガの「ルール」で戦う二人の苦悩が巧みに描かれています。
彼らが「ジャンプ」という土俵でどう戦っていくのか?それはまた、漫画家になった「あと」という、大きな山を持たない『バクマン。』がどう描かれていくのかというメタの写し身ともいえます。
メタ漫画として読まれることを覚悟の上で紡がれる物語である以上、読者もまた存分に、作中に描かれた「物語」と『バクマン。』という漫画そのものの「物語」を楽しみたいと思います。
●『バクマン。』と『DEATH NOTE』を比較して語る物語の「テンポ」と「密度」 『バクマン。』1巻書評
●『バクマン。』と『まんが道』と『タッチ』と。 『バクマン。』2巻書評
●『バクマン。』が描く現代の「天才」 『バクマン。』3巻書評
●編集者という「コーチ」と、現代の「コーチング」 『バクマン。』4巻書評
●漫画家で「在る」ということ。 『バクマン。』5巻書評
●病という「試練」。『バクマン』6巻書評
●嵐の予兆。『バクマン』7巻書評
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●「ギャグマンガ家」の苦悩 『バクマン。』9巻書評
●「集大成」への道のり 『バクマン。』10巻書評
●第一部、完。 『バクマン。』11巻書評
●「創造」と「表現」 『バクマン。』12巻書評
●スポーツ漫画のメソッドで描くことの限界について考察してみる。 『バクマン。』13巻書評
●七峰という『タッチ』の吉田ポジション。 『バクマン。』14巻書評
●「試練」と「爽快感」 『バクマン。』15巻書評
●天才と孤独と孤高と。『バクマン。』16巻書評
●リベンジと伏線と。 『バクマン。』17巻書評