『曲矢さんのエア彼氏』(中村九郎/ガガガ文庫)

曲矢さんのエア彼氏 (ガガガ文庫)

曲矢さんのエア彼氏 (ガガガ文庫)

「つまり、人間の感覚というのは個人的なものなわけだ。個人的な経験に基づいた個人的な感覚で、世界を測る。ひょっとすると僕が知っている黒は皆が思っている黒ではないのかもしれない。でも僕はちゃんと黒を識別できる。そんな風に、木村くんもその音をちゃんと識別できる以上、それはただの個人的な感じ方、ってことでいいんじゃないか?」
(本書p135より)

 ↑そんなこと分かっちゃいるけどお前にだけは言われたくない。そんな中村九郎の最新作は、相も変らぬ個性的な作風で読者の心を悩ませます(笑)。膝を壊してバスケをあきらめるしかなくなった木村くん。そんな彼が出会ったのはエア彼氏と共にエア騎馬兵と戦う電波女・曲矢サンノ。普通の人間には見えないはずのエア彼氏が見えてしまった木村くんは、その日からエア彼女を作るための修行に取り組むが……。といった、あらすじだけでも痛々しさ全開のお話です。脳内彼女や脳内彼氏なんて目じゃありません(笑)。
 エア彼氏やエア彼女といった妄想キャラによるバトルもの、となるとジョジョのスタンドを連想される方も多いと思われます。実際、そうした面もないではないですが、本書の方向性は少し異なります。ジョジョの場合は、スタンドが見える者=選ばれた者同士の戦いであって、そこにスタンドが見えない者が入り込む余地はありません。一方、エア彼氏・エア彼女の場合には、その見える・見えないといった前提そのものに対する認識のズレが問題になっています。つまり、見えないものが見える者同士の、あるいは、見えないものが見える者と見えない者との間でのコミュニケーションとディスコミュニケーションが問題となっています。そしてその先には、木村くんの現実にとってちょっとしたどんでん返しが待ち構えています。
 他者との関係性における妄想に焦点を置くことで、その対となる現実の認識を問い直す構造は、中村九郎にしては分かりやすい物語を読者に提示してくれているといえるでしょう。とはいえ、中村作品では世界の見方・視点といった問題点は常に意識されているところではありますから、そういう意味では本書は中村作品の王道として評価できます。
 人魚から人形、あるいはダイス(Dice)から死(die)といったダジャレ的なインスピレーションから物語を展開していくことが多いのですが、本書の場合にもエアリアル=【air real】という着想を基に、airとrealが対概念となることでお話が転がっていきます。とはいえ、エアを単なる妄想として切り捨てるスタンスは今どき流行らないでしょう。ギターを弾く真似をするエアギターはそれなりに認知度のあるパフォーマンスですし、作中でも触れられているエアセックスなんてマニアックなものもあったりします。しかし、これらはあくまでエアをエアとして楽しんでいるに過ぎません。エアを日常に持ち込む痛々しさとそうしたパフォーマンスはやはり別物です。
 しかしながら、一方でエアという概念は私たちの日常に深く入り込んできています。KY=空気を読む、といった言葉が一時期話題になったことがありました。また、某大型掲示板では”見えない敵”と戦っている皆さんがたくさんおられると聞きます*1。中村作品はその独特の作風ゆえに読み手をかなり選ぶのですが、好きな人にはたまらないらしく、「僕が中村作品を一番深く読むことができるんだ」みたいな空気がないでもありません。そんな中村作品を嗜む者にとって、”空気を読む”とは避けることのできないテーマ、かもしれません(笑)。
 とにもかくにも中村九郎がいったい何と戦っているのか知りたい方にはオススメの一冊だと思ったり思わなかったりです。
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