『うみねこのなく頃に』と4つの視点とか。
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バールストン先攻法(ギャンビット)
右代宮金蔵はすでに死亡している! よって島の本当の人数は17人! そこに未知の人物Xが加わることで18人になっている。この人物Xの存在によって、17人全員にアリバイがあっても犯行は可能になる。これにより、人間の数18人を満たしつつ、にもかかわらず、一見、18人全員にアリバイがあっても、犯人Xの存在と犯行は可能になる!!」
(Ep4 Tea partyより)
「行くぜ、クソジジイ!! 金蔵の名は右代宮家当主の称号として引き継がれているという仮説だ! 右代宮金蔵はすでに死んでいる。そして”その名”を誰かが継承した! 全員が承認した!! ”それにより、親族会議に居合わせた全員が、金蔵の存在を認めた”!! 祖父さまの変装をする必要さえもないのさ。一同が新しい”金蔵”を認めたのだから! よって”見間違えるわけもない”!! 以上の仮説が否定されない限りッ、お前が死んでいるという事実は変わらない!!!」
(Ep4 Tea partyより)
EP4で明らかにされた事実の中で重要なのがこれです。もっとも、EP3において「駒としての戦人視点」以外の視点で見せられているものの真実性に疑問が呈されたことから、こうした展開も推理として予想の範疇にあるものとされていましたが、それでもやはりそれが確定されたのは大きいです。
これはミステリ用語でいうところの「バールストン先攻法(ギャンビット)」のトリックが明らかにされたものだといえます。
バールストン先攻法(ギャンビット)
真犯人である人物を、既に死んでしまったかのように見せかけ、 読者が彼(彼女)を容疑者から外すようにとし向ける手法。
先攻法とはチェスの用語で、より大きな目的のために自分の手駒をわざと犠牲にする戦術の総称らしい。この「バールストン先攻法」という言葉は、 フランシス・M・ネヴィンズJrがクイーンのいくつかの作品群を論ずる目的で作った造語らしいので、「エラリイ・クイーンの世界」を持っている方のフォローきぼん。
(初心者のためのミステリ用語辞典より)
『エラリイ・クイーンの世界』は私も持っていないのでフォローが欲しいですが(笑)、バールストンとはコナン・ドイル『恐怖の谷』に出てくるバールストン屋敷からとられているそうです。また、先攻法(ギャンビット:Gambit)というのはチェス用語ですが、「一方が駒を捨て、それと引き換えに局面上の優位を求める序盤定跡」*1のことです。ゲームの随所にチェスの例えが頻出する『うみねこ』らしい手筋(チェス風にいえばコンビネーション)だといえるでしょう。
ただし、
「そなたの復唱要求にひとつ応じる。そなたの推理通り、全ゲームの開始時に金蔵はすでに死んでいる! しかし、ならばつまりは1人を抜かせば良いこと!! 妾はこれまで、この島には19人以上の人間は存在しないと宣言してきた。それを、金蔵の分、1人減らす!!
この島には18人以上の人間は存在しない!! 以上とはつまり18人目を含めるぞ。つまり、18人目のXは存在しないッ!! これは全ゲームに共通することである!!!」
「そら見ろ。やっぱりまだ、とんでもねぇ奥の手を隠してやがったぜ……。17人しか人間のいない島が18人と偽られてきた。それが1人へって17人になり、これでようやく正しい数になったってわけだ。………これで、お前をブチ抜いていた楔が抜かれたな。戦いはゼロから仕切り直しってわけだ…!」
(Ep4 Tea partyより)
となって、推理の根拠があっという間に引っくり返されてしまいました。つまり、バールストン先攻法という手筋そのものが捨て駒だったわけですが、それも『うみねこ』らしいといえばらしいと思います(笑)。
『うみねこのなく頃に』と4つの視点
- 作者: 荒川 弘
- 出版社/メーカー: 青土社
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「”ベアトがどんな魔法を俺に見せようとも、この世界ではそれを以って魔法が存在する証拠にはなり得ない”ってことか。」
(Episode3 『ワルギリア』より)
「…バトルぅ? 何があったって?」
「……何ぃ?」
「この薔薇庭園のどこに。お前らがにょきにょき生やした塔が、槍が。どこに転がってんだ。………ねぇじゃないか。つまり、こいつがブラウン管の中身ってわけさ。」
「俺はさっきの魔女の戦いにこう反論する。今、この場になにもないのは、何事もなかったことの証明だとな…!」
(Episode3 『ワルギリア』より)
というような魔女によって見せられた幻想・魔法のようなものとして処理することになろうかと思います。戦人には駒として視点とベアトリーチェと盤を挟んでのプレイヤー視点があるわけですが、このうち、プレイヤー視点については魔法による幻想であることを排し切れず、よって、駒としての視点(=戦人の主観視点)しか信用できない、ということになるでしょう。
だとすると、魔女による幻想・魔法はまったく信用に値しないものなのかといえば、そこは微妙なところです。が、とりあえず推理の根拠にするには不適当なものだといえるでしょう。ただ、そこに何の意味もないということもないはずです(というか、そう思いたいです)。
ニンゲンが宇宙を生み出すための最小人数は、2人。
それが崩れれば、世界は滅ぶ。
黄金郷に引き篭もった魔女を引き摺り出すには、この世界を滅ぼさなければならない…!
(Episode4 『右代宮縁寿』より)
「………それが、魔法の根源よね。………愛がなければ。悲しみがなければ。怒りがなければ。………魔法は、視えない。」
(Episode4 『右代宮縁寿』より)
EP4においては、主に縁寿の視点から魔法の概念が説明されますが、それは誰の目にも視ることが可能なものとされています。ただしそれには信じること・愛があることが必要とされています(だからこそ、最少人数が2人なのです)。そして、プレイヤーにはそうした魔法世界を、信じる信じないに関わらず、あるいは愛の有無に関わらず、見せられている、ということになるかと思われます。
このように、『うみねこ』においては視点について、いくつかのレベルを考えることが必要とされます。ここでは、そうした視点のレベル差を考える上での補助線として、『ユリイカ2008年6月号「特集 マンガ批評の新展開」』所収「キャラたち/キャラクターたち」(泉信行)で挙げられている4つの視点の概念を用いることで、『うみねこ』における視点のレベル差を説明してみます。
4つの視点についての詳細は当該論稿を実際に読んでいただきたいですが、私なりに簡単にまとめると以下のようになります。
視点 | 意義 | |
---|---|---|
〈プライヴェート視点〉 | 誰か一人のキャラクターが感じている「主観的な印象」で世界を眺めた視点 | |
〈パブリック視点〉 | 誰にでも共有可能なイメージからの視点 | |
〈客観視点〉 | 均一に世界の外面だけを映し出すような視点 | |
〈神の視点〉 | ありとあらゆるものを見通す全知の視点 |
このうち、六軒島での戦人の主観視点・駒としての主観が〈プライヴェート視点〉に、そんな駒たちの動きを俯瞰的に眺めるプレイヤーとしての視点が〈客観視点〉に、そして、キャラクターとキャラクターの間によって生まれる魔法が、〈パブリック視点〉に当たることになります。
キャラクターは複数であることが、物語では求められます。
人が群れなければならない理由と、全く同じ理由で。
人は物語を必要としていて、そして自分の物語というのは、人と出会いつづけることでようやく得られるものです。
(「キャラたち/キャラクターたち」p69より)
〈パブリック視点〉とは何でしょうか? 「私的」の対義語としての「公的」は、誰にでも共有可能なイメージを描き出すことを意味します。私的で孤独な「誰かの視点」でもなく、純粋な観察者による「誰でもない者の視点」でもなく、みんなで同じイメージを得ることができる、「誰でも視点」というニュアンスを持つのだと。
(「キャラたち/キャラクターたち」p71より)
『うみねこ』によって描かれている魔法という名の〈パブリック視点〉。魔法が視えるキャラクターと視えないキャラクターとの間でのコミュニケーションとディスコミュニケーションの問題がそこには描かれています。そうしたキャラクターたちの関係性において、どこまで魔法が優位を保てるのか、あるいは全否定されることになるのか。『うみねこ』は”アンチミステリー”だけではなく”アンチファンタジー”というのもひとつの売りになっていますが、このあたりのテーマがどのように収束していくことになるのかも興味のあるところです。
ちなみに、上述の4つの視点の話に戻りますと、ラムダデルタやベルンカステルといった航海者(Ep4のTIPSより)たちの視点が〈神の視点〉に当たることになります。もっとも、『うみねこ』の視点というのはそんなに単純なものではありません。〈神の視点〉にしても、それがキャラクター化されてしまっている時点で〈プライヴェート視点〉を持った存在に成り下がってしまうからです。そもそも、〈神の視点〉でありながら戦人とベアトとのプレイヤー同士の勝負に干渉してきていることからもレベルの境界が曖昧なことが伺えます。〈客観視点〉にしても、それがキャラクターになることで、俯瞰する存在だけでなく俯瞰される存在という側面をも併せ持つことになります。さらに、ベアトリーチェという存在が本質的にどのレベルに位置する存在なのかがハッキリしていません。ベアトリーチェの正体は本作における核心ですが、その正体が明かされるときにそうしたことも明らかになることでしょう。
【参考】『3月のライオン』と4つの視点 - 三軒茶屋 別館
推理するとは、疑うこと。探偵するとは、信じること。*2
無謬邸は暁に消ゆ―浪漫探偵・朱月宵三郎〈2〉 (富士見ミステリー文庫)
- 作者: 新城カズマ,左
- 出版社/メーカー: 富士見書房
- 発売日: 2001/12
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何も信用できない、赤くない言葉は何も信用できない…!!
(Episode4 『右代宮縁寿』より)
という状態になるのも当然です。
以前にも述べましたが、戦人には魔女との関係では弁護人の立証作業、事件の犯人との関係では検察官の立証作業が求められています。
このうち、魔女との関係において弁護人の仕事をするということは、本来ならば魔女を弁護することにつながるはずなのですが、作中では(これまでのところ、ですが)魔女との対決とその存在の否定へとつながっているのが面白いです*3。そこには信用や信頼というものがありません。
法廷ミステリでは弁護士が主人公を務めるものがたくさんあります。そうした弁護士たちも、検察官の主張立証を打ち崩すために様々な屁理屈を並べ立てます。それでも彼らが主人公としての威厳を保っていられるのは、たとえ世界のすべてを敵に回すことになろうとも、弁護士だけは依頼人である被告人を信じて戦うという信念があるからです(たとえそれが金や名誉のためであったとしても、建前はそういうことです)。ですが、戦人とベアトリーチェとの間にはそうした関係はありません。だからこそ、ベアトリーチェはそれを求めている、ということになりそうですが、あまり野暮な推測を並べるのも無粋というものでしょう。素直に続きを待つことにします(笑)。
信用がない、信じることができない、というのは作品とプレイヤーとの間の問題でもあります。ミステリにおいてはフェアプレイと呼ばれる守るべきルールの存在が提唱されますが、元来何をどう書こうが自由であるはずの小説において何故そうしたことが厳格に求められるのかといえば、そうでないと面白くないからです。
「例えばだね、探偵小説の中に『これこれこの事はまったく事実に相違ない』とか『この証拠は動かし難い』とか、はたまた『この台詞は事件に無関係なので疑う必要はない』という地の文が出てきたとしても……それすら疑ってかかることは、原理的には、当然できるはずなのだよ。だが、誰もそんなことは疑わない」
「そりゃそうでしょ。そこまで疑ったら、お話が成立しないもの」
「では訊くが 、なぜ話が成立しなくてはいかんのかね ?」
(中略)
「……だって、それじゃあ面白くないわ!」
「そう。つまり、そういうことだ」浪漫探偵の優しげな笑み。「すべては疑い得ると豪語している、あの『読者』と呼ばれる特権的な一族でさえ、必ず何かを信頼している。いや、信頼せざるを得ないのだ。
なぜなら、本当に全てを疑ってしまったら話が面白くならんからだ 。そして読者にとっては、それこそはゆずることのできない、最低限の一線なのだ」
(『浪漫探偵・朱月宵三郎2 無謬亭は暁に消ゆ』p189〜190より)
ミステリの楽しみといえば、提示された謎を解決するに際しての閃きと、そこから生まれる論理的な思考(チェス風にいえば、インスピレーションとコンビネーション)にありますが、その前提には、そうした思考、つまりは推理の根拠となるもの・信じられるものの存在が不可欠です。そして、それを保証するものがフェアプレイなのです。魔法によってプレイヤーの見ているものを否定する本作は、ミステリにおける信頼という前提を再考させるものです。その意味での思索的な面白さは確かにあります。ですが、ミステリいう物語としての面白さはどうでしょうか? 信頼と疑いのバランスには正直かなりの疑問を持っていますが、まだまだ未完の作品ですし、あまり断定的なことはいわないでおきましょう(笑)。
【参考】言語の浜 うみねこのなく頃に 竜騎士07に勝つ最良の方法 暫定版
真実を語る『赤き真実と青き真実』と信実を語る魔女幻想
EP4では『赤き真実』に対抗する概念として『青き真実』が登場します。
「妾が赤を使えるように。戦人、今よりそなたには青を使うことを許そう。
そなたは、妾の魔法殺人を人間とトリックで説明する際に、青で宣言することが出来る。妾はゲーム終了までの間に、そなたの青を赤にて反論する義務を持つ。」
「青……。つまり俺は、復唱要求を”青”で語るということか…。」
「少し違うぞ。復唱要求はどんな些細なことでも可能だった。しかし青はもう少し厳しいぞ。それ自体が魔女を否定しない限り、成立しない。」
難しい話になってきたが、…つまりこういうことだ。
例えば、過去の謎で俺が復唱してきたことの1つ。
「マスターキーの本数は5本である」。
これは5本しかないと主張するマスターキーが、本当に5本であることを確認するためのものだ。
しかしこれだけでは、魔女の否定にはならないから青で宣言は出来ないのだ。
だから、青で語るにはこう言わなくてはならない。
”実はマスターキーの本数が5本を越えていた。犯人はその余剰の鍵で密室を出入りした!”
……と、こうなって初めて、魔法で密室殺人を行なったと主張する魔女に、反論する義務が生まれるわけだ。
つまり、推理の前提を確認するような復唱の要求には使えない。
(Episode4 『赤き真実、青き真実』より)
EP4によって登場した青き真実。これには、絶対的な真実を保証する赤き真実のような力はありません。なので、通常の言葉とそんなに変わるものではありません。しかし、だからこそ、法廷において意味をなす言葉と意味をなさない言葉を区別するために青き真実が必要となります。青き真実は、戦人(と縁寿)とベアトリーチェとの合意によって生まれたものです。それは、魔法説を否定する人間トリックとしての説得力を有している場合に効力を発揮します。これによって、青き真実による戦人の攻撃と赤き真実による魔女の防御という、攻撃防御の図式が出来ることになりました。繰り返しになりますが、青き真実とは、2人の合意によって生まれるもの、すなわち2人が争点として認めるからこそ効力を発揮するものです。魔女裁判という法廷において、互いの言い分を認め決着を付けるために必要な言語、それが青き真実であり赤き真実なのです*4。
『赤き真実』と『青き真実』によって、六軒島において何があったのかという事実認定のルールは定まりました。戦人は人間説に立って、ベアトリーチェは魔法説に立って、事実認定の勝負を行ないます。戦人が勝てば魔法説が、ベアトリーチェが勝てば人間説が切り捨てられることになります。しかしながら、切り捨てられることになる敗者が”信じていた事実”は無意味なものなのでしょうか? 敗者だけではありません。勝者にしても無傷での勝利を手にすることはないでしょう。もしかしたら、敗者よりも多くの”信じていた事実”を切り捨てられることになるかもしれません。
そうした断片に意味を持たせ、価値を与えるのが魔法であり、それによって生み出されるのが物語なのだと思います。もっとも、裁判によって必ずしも真実が生み出されるとは限りません。もしかしたら裁判という名の儀式によって魔法が発動して物語が生み出されてしまうかもしれません。そうなったとき、信実が真実である場合もあり得ます。赤と青の真実の応酬の果てに明らかになるであろう真実と魔女幻想の関係は、果たしてどのようなものなのか。
雰囲気的には次回決着でもおかしくないように思うのですが(笑)、どうやらまだまだ先があるみたいなので、おとなしく続きを待つことにします。
*1:『決定力を鍛える』(ガルリ・カスパロフ/NHK出版)より
*2:『浪漫探偵・朱月宵三郎2 無謬亭は暁に消ゆ』のオビより。原文は同書p154の「推理するとは、疑うことだ。しかし、探偵するとは信じることだ」です。
*3:魔女を弁護してあげてるのに怒られてる、という見方もできますね(笑)。
*4:要件事実論という法律学上の理論がありますが、民事訴訟における要件事実論は、原告と被告の間で行なわれる主張・立証責任の分配・攻撃防御方法の構造(=裁判規範としての民法)を意味します。ある法律上の請求原因があったとして、それを請求するためにはどのような事実の主張立証が必要なのか。それに反証し、あるいは抗弁するためにはどのような事実を主張立証しなければならないか。それを決めるのが要件事実論です。要件事実論はときに「法的コミュニケーションのための共通言語」などと説明されることがありますが、青き真実と赤き真実もこれと同じです。魔女裁判という法廷において2人の間で交わされる共通言語なのです。