「リアリティ」についての雑感

 ネットで「リアリティ」というフレーズが用いられる時は、いつもカギ括弧付きの言葉として扱われがちですね。
 それは、「リアリティ(reality)」が「現実感」の英訳であり、そしてrealityは現実感としか訳せないという誤った思い込みから来ていると思います。
 だから「ここでいうリアリティというのは、説得力や納得感があるという意味のことで、いわゆる現実感とは別の・・・」と遠回しに説明しなければいけなくなるのですが、そもそもリアリティは「現実感」としか訳せない英語なんだ、と考えるから説明が難しくなるんだと思います。
「リアリティ」はなんて訳す? 訳し方はひとつじゃないはずだ - ピアノ・ファイアより)

 この論点については、以前書いた『図書館戦争』と”不気味の谷”という記事のコメント欄で有益な意見をもらえたこともあって興味のある話題ですので、自分メモついでに少々雑感を。とはいっても、基本的には上記リンク先の主張に完全に同意なのですが(笑)、「リアリティ」という用語の名の下にいったい何が問題になっているのか?ということを突き詰めて考えることが大事なのではないかと思っています。
 まず、「リアリティ」という言葉が現実との関係において問題とされている場合には、それを「現実感」と訳すのがやはり一般的でしょう。細かいことと思われるかもしれませんが、「現実」と「現実感」は別物です。それは、「自己の現実」と「他者の現実」と置き換えることもできるでしょうが、つまり「現実感のない現実」というものもあるわけです。こうした枠組みで「リアリティ」が問題となっている場合に、「リアリティがない」などといってしまうことは、ときに自らの現実把握能力の乏しさを晒してしまうことになりかねないので気をつけたいものですね(笑)。
 それとは別に、作品内の世界観が問題となっている場合には、「リアリティ」という言葉の他に、その作品について「完成度」、もしくは世界観・設定について「整合性」といった言葉を用いるのが便利だと思います。そうした問題点について「リアリティがない」と批判することは「リアルに近づけろ」と主張することを意味することになりますが、しかしながら、フィクションは所詮フィクションであって、そうした批判は突き詰めればフィクションの存在そのものを根本から否定することにつながりかねません。なので、このように言い回しを工夫した方が議論をする上での生産性も向上するものと思います。
 また、「リアリティ」の名の下に現実=存在、現実感=当為、という存在と当為の関係(参考:純粋法学 - Wikipedia)が問題視されている場合もあります。『図書館戦争』のように社会派的な作品の場合には、そのテーマに社会派的な主張が込められている場合があります。このとき、その作品でなされている主張があまりにも非現実的な場合にはやはり「リアリティがない」といった意見が出てくることになると思いますが、それは厳密には現実性ではなく「実現性」が問題になっているということに気をつけたいです。こうした場合には、他に「説得力」や「可能性」といった言葉で言い換えられることもあるでしょう。
 「リアリティ」という言葉について現時点で私が考えているのはだいたいこんな感じですが、何かご意見などございましたらお気軽にコメントなど下さいませませ。