「ラノベの本格派ミステリー」と西尾維新

 ちょっと旬を過ぎましたが、久米田康治さよなら絶望先生』の最新巻が発売されました。

さよなら絶望先生(15) (講談社コミックス)

さよなら絶望先生(15) (講談社コミックス)

 フジモリはDVD版を購入したのですが、TV版よりいっそう悪ノリしてて面白かったです。
 さて、作中第147話「てりやき狂言」でこんなやりとりがありました。

 「ラノベの本格派ミステリー」*1
 ラノベでミステリーというと真っ先に富士見ミステリー文庫*2を思い浮かべるのですが、「LOVE寄せ」に代表されるように「本格」とはちょっと縁遠い気がします。
 この「ライトノベル」と「ミステリー」の関係について、西尾維新は自身の作品の中でこう語っています。

 「(前略)しかし確かに、どうもライトノベルとミステリーは相性が悪いらしい」(中略)
 「ミステリーの定義。それはただひとつ」(中略)
 「評価を得ないことだ」 (中略)
 「エンターテイメントに徹するがゆえに数字を重んじるライトノベルと、相性が悪くて当然ということだ−−−考えてもみたまえ。見ようによっては、評価を得るということは売れるということであり、つまり不純なのだから」
 「……けど、ある程度は売れなきゃ話にならないだろ。商品として市場に出てるんだから」
 「その通り。しかし、不思議なものでね−−−ある程度以上の評価を得てしまうと、どれほど優れたミステリーだったとしても、それはミステリーとしては扱われなくなるのが世の常なのだ。サスペンスやホラーになる」(西尾維新きみとぼくが壊した世界』p32〜36)

 ライトノベルを「エンターテイメントを重視した「何でもあり」のジャンル」と捉えると、「本格」というのは、娯楽でありつつ読者を選ぶジャンルだと思います。それはミステリーでもSFでも同じです。
 ご存知の方も多いと思いますが、西尾維新の「戯言シリーズ」はミステリー作品として「メフィスト賞」を受賞しつつ、2006年度の「このライトノベルがすごい!」大賞を受賞している、いわば「ライトノベルの本格派ミステリー」を体現しているかのような作品です。
 しかしながら、西尾維新は「ライトノベル」という名称および「ライトノベルそのものではなくライトノベルを取り巻くブーム」に違和感を覚えており、受賞時のインタビューでも

 ライトノベルと認識されても抵抗はないです。悪意がある場合は別ですが(笑)。どちらかといえばわざわざ声に出して「これはライトノベルではない」と言われるほうが嫌ですね。雰囲気が嫌。(宝島社『このライトノベルがすごい!2006』p27)

 ええ、だからもう「ブーム」はおしまいっていうことにしちゃいましょうよ。もういいじゃないですか。みんな十分遊んだでしょう。今この場で宣言しましょう。ライトノベルブームおしまい!(同p28)

 などと言っています。ある意味、ライトノベルという「ジャンル」について物申しているわけです。自身の作品をミステリーとライトノベルという両面から評価される作者だからこその発言なのかもしれません。
 以前は「ライトノベルは何でもあり」という言葉がありましたが、最近はどちらかといえば「これはラノベじゃない」といった線引きの意見の方が多いような気がします*3。境界線がないかと思われたライトノベルという「ジャンル」ですが、『きみとぼくが壊した世界』で言及されているように「ミステリー」というジャンルとは比較的相性が悪いのかなぁ、と思われます。
 そういった事情を踏まえてはいないと思いますが、この「ライトノベルの本格派ミステリー」という食い合わせの悪い一言をさらっと一コマで表現する、久米田康治のセンスはさすがだなぁ、と思いました。

*1:まあ、本格「派」とは普通言わないですけど。

*2:本筋とは関係ないのですが、一言。・・・絶望した!wikipediaの作品リストに新城カズマの浪漫探偵シリーズが無いことに絶望した!

*3:当社比