試論私論西尾維新論

クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い (講談社文庫)

クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い (講談社文庫)

「というのは嘘でみんな死にました。」
(『ネコソギロジカル』p372)

 自分が無意識に当たり前だと思っていたこと、常識だと思っていたことが、実はそうではなかったというときの名状しがたい気持ちには、誰しも心当たりがあろうかと思います。そんな無駄知識を今回は晒してみたいと思います。(ここまでアイヨシ記事のマクラのコピペ)
 西尾維新悲鳴伝』書評でも書きましたが、西尾維新の作風は「皆殺しの維新」と勝手に称しましたとおり「スピンオフを書いたら一冊本が書けるキャラたち」を容赦なく使い捨てる(殺す)という特徴があります。
まったく、最悪で最高だ。 西尾維新『悲鳴伝』
 これは「このトリックを中心にすえればミステリが一冊書ける」ような様々なトリックを容赦なくネタとして捨石にする舞城王太郎に近しいものがあると思っています。
 『めだかボックス』はさすがに少年誌向けなので鳴りを潜めていますし「物語シリーズ」はどちらかというと会話劇の特徴を濃くもっていますのでこれまた珍しくおとなしい内容ですが、実際、戯言シリーズや世界シリーズではばったばったとキャラが死んでいきますし、一度殺したキャラが惜しくなったのか「零崎シリーズ」で某キャラたちを再登場させています。
 この作風の源泉は、彼のデビュー作にあります。
 すなわち、西尾維新はデビュージャンルである「ミステリ」というジャンルを最大限に生かして自らの作風を固めたのだと思っています。
 なにをもって「ミステリ」とするか、の論議はややこしくなるのであえてキングクリムゾンのごとくすっ飛ばしますが、「ミステリ」とはすなわち
・人が死ぬことが許される
・奇妙な名前であることが許される
 というジャンルであると思います。
 ライトノベルというジャンルは乱暴に言えば「萌え」の文学だといえます。個性的なキャラに感情移入させ、奇妙奇天烈あるいは平穏な日常というストーリーに感情移入させ、作者そのものに感情移入させる、魅力的な「何か」にいかにファンをつけるかという点に作者は淫しています。
 それはライトノベルの源泉でもある漫画(特に近年の漫画)も同様です。「キャラクターグッズ」「キャラクターCD」などに代表されるように、「魅力的なキャラクター」はその漫画の人気に直結します。
 そしてその代償として、「キャラを殺せない」という弊害がトレードオフに生まれます。
 キャラクターの退場は物語の大きなアクセントとなります。成長を描く物語では「喪失」と「克服」は必須ですし、ベタな話、読者の感動を生み出すイベントになります。
 漫画では「死」を描くことそのものに制限があるでしょうし、主要キャラの退場は「ビジネス」的にも「クレーム」的にも編集側にとってはあまり望まれるものではないと邪推します。例えば藤田和日郎の作品、『うしおととら』『からくりサーカス』『月光条例』と主要キャラの人死にの人数が減少していく様は漫画を取り巻く情勢の変化を感じますし、「死んだと思ったら復活」というのはジャンプ漫画の代名詞です。それゆえにあえて主要キャラを死によって退場させた『ONE PIECE』は作者の強い意志を感じますし、『HUNTER×HUNTER』や『進撃の巨人』は「誰がいつ死ぬかわからない」というスリリングさが読者をひきつけます。
 つまるところ、「キャラ萌え」を主力燃料とする物語ジャンルにおいては「キャラクタ」を殺すこととの相性が非常に悪いのです。
 そしてその矛盾を包含しているのが西尾維新の作品です。
 これは先述したとおり、西尾維新が『クビキリサイクル』という「ミステリ」でデビューしたことと深い関係があります。
 ミステリというジャンルは人が死んで当たり前の世界です。「読者を驚かすことに注力する純粋なエンタテイメント」であるミステリにおいて、登場人物の誰が死んでもでもおかしくありません。シリーズものの探偵であっても聖域ではあらず、犯人含めて全滅、なんて作品もあります。西尾維新デビュー作『クビキリサイクル』はその「ミステリ」という枠組みに「キャラクタ」を投下した作品でした。
 現実にはありえないような名前(これもまたミステリ作品の特徴ですが、西尾維新のネーミングの奇妙さはかなり「度」が過ぎていました)や個性を持ったキャラたちが孤島で連続殺人に巻き込まれる。ミステリであるからこそ誰が死んでも許される。
 この流れは『クビシメロマンチスト』『クビツリハイスクール』と続き、『クビツリハイスクール』ではバトル漫画の手法を色濃くしながらも一応ミステリという体裁は整えていました。
 そして顕著なのが「戯言シリーズ」最終章である『ネコソギラジカル』。もはやミステリ要素はまったくなく、バトル+αのジュブナイル小説でしたが、「個性的なキャラが次々と死ぬ」要素だけは引き継がれました。
 この「戯言シリーズ」におけるグラデーションが、彼の作風の源泉となったのではと推測します。
 彼が尊敬する作家、上遠野浩平の作品もまた、作中で人がどんどん死んでいきます。しかしながら彼の生み出すキャラはまさに「登場人物」であり、過剰過多な個性は与えられません。
 「感情移入や萌えが前提であり退場が許されない」という「ライトノベル」というジャンルに代表される個性豊かな「キャラクタ」を「合法的に」殺せるというまさにアクロバティックな手法を「ミステリ」というジャンルをクッションに挟むことによって可能にしたのが「戯言シリーズ」に代表される西尾維新の作品であり、唯一無二とまでは言いませんが非常に興味深い作風だと思っています。
【ご参考】ミステリとライトノベルの相性について
「ラノベの本格派ミステリー」と西尾維新