『ベガーズ・イン・スペイン』(ナンシー・クレス/ハヤカワ文庫)

ベガーズ・イン・スペイン (ハヤカワ文庫SF)

ベガーズ・イン・スペイン (ハヤカワ文庫SF)

 本書は、早川書房編集部が独自に編集したナンシー・クレスの中短編集です。著者の作品を読んだのは本書が初ですが、一読した限りでは、アンシブル(参考:アンシブル - Wikipediaアーシュラ・K・ル=グウィンの後継者という印象を受けました。総じてクオリティの高い一冊です。オススメです。以下、作品ごとの雑感。

ベガーズ・イン・スペイン

 遺伝子工学による”無眠人”の誕生。無眠人は睡眠をとる必要がないため、その時間を勉学や仕事などに有効に使うことができます。その後さらに彼ら無眠人が”有眠人”(一般人のこと)と比べて身体的にも優れた特性を有していることが明らかになります。本作はSFのテーマとしてはいわゆる新人類ものに分類することができますが、無眠人の能力がサイキックなどといったものではなく、社会的に有益な能力(高い知能と学力。身体の完全性など)であるが故に、無眠人と有眠人の軋轢は社会的問題として浮かび上がってきます。つまり、多数の劣等者による少数の優等者への迫害です。それは平等とは何か?という問いでもあります。私たちの世界は一般に平等というものが保障されていますが、そこでいう平等とは、機会の平等(形式的平等)のみならず結果の平等(実質的平等)をも含んでいます。社会保障制度などはこうした「結果の平等」の考え方に基づいています。であるならば、もともと優れた能力を有している無眠人に対して社会的に制限を課すことも果たして許されるのか。それは、個人と社会との関係のあり方にもつながる問い掛けでもあります。
 そうしたテーマ性を有しながらも、ストーリー自体は無眠人の主人公リーシャをはじめとするキャラクターの苦悩が生き生きと描かれていて、非常にリーダビリティの高いものに仕上がっています。ヒューゴー賞ネビュラ賞など様々な賞を受賞しているのも納得です。

眠る犬

 同じく無眠人シリーズ。人間を無眠にしたら成功した。では犬は?先行するテクノロジーと常に後手に回らざるを得ない法制度との狭間で翻弄された一人の女性の物語です。

戦争と芸術

 思考の硬直と自由とを戦争と芸術の関係になぞらえて、そこに親子関係も加味した佳品です。

密告者

オーリット監獄は、犯罪者の収容施設だ。盗みや詐欺や幼児誘拐などをはたらいて逃走したというような、いってみればあたりまえの犯罪者だけを収容する場所ではない。オーリット監獄には、現実者でない者、万人に共通の現実を共有していないという幻想にとらわれて、他人の確固たる現実、すなわち彼らの肉体を破壊する危険性のある者たちが収容されているのだ。傷害事件を起こした者、レイプ犯、殺人者。
 わたしの同類たち。
(本書p286より)

 例えばトム・ロブ・スミス『チャイルド44』で描かれているスターリン体制下のソ連では、連続猟奇殺人者は存在しないものとされました。なぜなら、連続殺人は資本主義社会の弊害であり社会主義の思想下においては存在するはずがない、というイデオロギーが現実よりも優先されたからです。つまり、連続猟奇殺人者は権力によって存在しない者とされたのです。こうした社会においては、現実を共有するための戦いは生きるための戦いでもあります。それが『チャイルド44』の世界です。本作は現実性を有しないこと自体が犯罪とされていますが、その設定は決して荒唐無稽なものとはいえません。インターネットやテクノロジーの発達により現実性が揺らいでいることとも併せて、今だからこそ押さえておきたい傑作です。
 『プロバビリティ・ムーン』『プロバビリティ・サン』『プロバビリティ・スペース』の三部作の原型でもあります*1

思い出に祈りを

 延命がテーマのショートショートです。

ケイシーの帝国

 SF、しかも『銀河帝国』ものを書くために様々なものを切り捨てて努力を続けるケイシーのもとに訪れたものは不運か幸運か。メタSFとでもいうべき痛切で苦々しい傑作です。

ダンシング・オン・エア

 巻末の解説によれば、原題「Dancing Air」には舞踏の他に絞首刑の意味もあるとのことです。バレエという芸術とナノテクを始めとするテクノロジーの問題がテーマです。スポーツにおけるドーピングや医学倫理の問題も複雑に絡みつつ親子の愛憎が描かれています。さらには、生体能力を強化されたことで知能を有した犬の視点からの描写の採用など技巧的な構成も目を引きます。
【関連】『アードマン連結体』(ナンシー・クレス/ハヤカワ文庫) - 三軒茶屋 別館

*1:巻末の解説によれば、「アイデアや造語、固有名詞に共通点はあるものの、長編化に際して設定や物語はいったんリセットされている。」(本書解説p523より)とのことですが、あいにく私は未読ですのであしからず