『エロス―もう一つの過去』(広瀬正/集英社文庫)

エロス 広瀬正・小説全集・3 (広瀬正・小説全集) (集英社文庫)

エロス 広瀬正・小説全集・3 (広瀬正・小説全集) (集英社文庫)

 小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議からだと思います*1といいますが、”もしも何々が何々だったら”というテーマで語られるホワット・イフの世界というのは、そうした抗議が物語として端的に形となっているものだといえます。
 歌手として大成功を収めた橘百合子。歌手生活37周年記念リサイタルを前に、”もしもあのとき”という雑誌アンケートをきっかけに、もしあのとき違う選択をしていたら、という過去の回想が始まります。それは、分岐点となる出来事をきっかけとした、現在につながる過去と、もしかしたらあったかもしれないもう一つの過去のふたつの平行する物語です。
 SF的には、平行世界、もしくはパラレルワールドとよばれるテーマに属しますが、そこで語られる過去と、もう一つの過去の物語は、仮の回想とは思えないくらいに活き活きと描かれています。巻末の解説で小松左京も述べていますが、基本的に本書は、昭和初期の時代を描いた風俗小説乃至は歴史小説です。そうした趣向は、傑作タイムトラベル『マイナス・ゼロ』を読んだ後ですと二番煎じの感は否めないのですが、それでもやはり楽しめます。
 『エロス』とは愛の女神の名前です。恋愛にはつねに選択が伴います。もしあの人と付き合っていたら、もしあの人と別れていなかったら。そう考えると、イフ・ホワットの物語は何もSFに限ったお話ではありません。
 また、『エロス』というタイトルには、ひとつの事柄にもふたつの呼び方があるということで平行世界を連想させる意味もあります。昭和15年に、普段使用する言葉について軍部がカタカナ化を推奨したのに対し政府が日本語化を推奨するという矛盾が生じます。そうしたなかにあって『エロス』という言葉は果たして是か否か。そうした意味も込められています。
 地道な調査・取材に基づいたものであろう日常の細部に凝った描写。そうしたものが、個人の生活と昭和という時代とを彩り鮮やかなものとして読み手に伝えてくれています。”神は細部に宿る”といいますが、そんな細部にこだわった描写があるからこそ、結末において明らかになるちょっとしたサプライズに最大限の効果が生まれてきます。
 私たちが生きている”今”と”もし”にしないための過ごし方。そんなことを考えさせられる一冊でした。

*1:北村薫『空飛ぶ馬』単行本版より