『T型フォード殺人事件』(広瀬正/集英社文庫)

 本書に収録されている長編『T型フォード殺人事件』は、SF作家として知られる広瀬正がその生涯で書いた唯一の長編ミステリです。
 もっとも、ミステリとは、事件が起きるまで流れと何が起きたのかを探り当てる流れの、二つの時間の流れが交錯する物語形式です。そして、広瀬正はそうした時間的要素を巧みに操作する手腕に非常に長けた作家ですし、その腕前は本作においても如何なく発揮されています。
 荒れ狂う台風の夜に集められた面々。そこで語られるのは四十六年前に起きた密室殺人事件です。事件の舞台は相も変わらず大正から昭和初期にかけての”広瀬正の東京”ですが、そうした時代の雰囲気がT型フォードという一台の車についての詳細な説明と描写を軸に醸し出されていくのもまた相変わらずです。「神は細部に宿る」といいますが、細部へのこだわりが物語の中にその時代を映し出していきます。と同時に、本書の場合には、それが密室トリックの説明にも寄与することになるという一石二鳥の効果を挙げています。
 正直、T型フォードの密室トリック自体はたいしたものではありません*1。ですが、本書の凝りに凝った構成は広瀬正らしさが全開でとても楽しめます。一人称や三人称といった視点の変化について作中でわざわざ述べているくらいですから、本書もそうした点について当然自覚的なはずで、そうであるからには本書はアンフェアといえばアンフェアなのでしょう。ですが、手掛かりがすべて出揃った後に見えてくる筋書きの見事さには、騙されてもいいかなと思わせるだけの洒落っ気があります*2
 過去と未来が交差するタイムトラベルものが得意の作者らしいミステリとしてオススメの一品です。
 なお、本書には他に〈殺そうとした〉〈立体交差〉の二つの短編が収録されています。〈殺そうとした〉は自動車を使った完全犯罪が主題として上がります。それがもっと徹底的に追求されていたらミステリとして傑作になっていたかもしれませんが、本書のオチですとショートショートとしての評価しかできません。まあ、これはこれで面白いと思いますけどね。〈立体交差〉は過去から未来への旅を扱ったSF的な短編ですが、その結末は素朴でさり気なくて、ともすれば非SF的ともいえるものですが、とても味わい深いものに仕上がっています。滋味がたなびく佳品です。

*1:もっとも、物理トリックにありがちな複雑さや分かりにくさとは無縁という意味ではよくできたトリックだとは思いますが。

*2:2特に第六章の章題が入るタイミングは絶妙です。