ファンタジーとライトノベルと児童文学の関係

 名付けるならば、ファンタジー力でしょうか? 物語を書くということではなくて、現実につぶされない、明日を信じる力だと思うんです。明日は誰にも見えないので、それを信じるのはファンタジーの力だと思います。
(『小説新潮』2008年9月号所収あさのあつこインタビュー「少しだけ、現実からずれた世界で」p264より)



 新城カズマは、著書『ライトノベル「超」入門』にて、ライトノベルと宮崎アニメの関係について次のように述べています。

 意外なことに、現代の日本アニメに対して決定的な影響のある宮崎駿の作品群は、ライトノベルにあまり影響を与えていません。少なくともイラストというレベルにおいては。
 彼の諸作品は、いわゆる「おたく文化」に多大な影響を与えてきましたが、なぜかライトノベル方面ではその痕跡がほとんど見あたらないのです。
(中略)
 かろうじて、ひとつの仮説として、
「宮崎アニメはむしろ”ジュブナイル”や”ヤングアダルト”という言葉によってあらわされる物語群に近いのではないか」
 というのをひねり出せる程度です。
 作品自体がそうであるというよりは、世間の「宮崎アニメを読解する視線」が、そっちのほうにロックインされてしまっている。そんな印象があるわけですね。
(『ライトノベル「超」入門』p117〜118より)

 こうした指摘を受けてかどうかは分かりませんが、『小説新潮』2008年9月号「特集 日本のファンタジーはすごい!」所収の大森望「ファンタジーノベルの二十年」では、日本ファンタジー黎明期(日本ファンタジーノベル大賞誕生前)を、

 日本におけるファンタジーは、RPG/ライトノベル系と、宮崎アニメ/児童文学を両輪に発展していく。
(『小説新潮』2008年9月号所収大森望「ファンタジーノベルの二十年」p268より)

というようにライトノベルと児童文学を分けた上で、宮崎アニメを児童文学側に振り分けることで宮崎アニメの影響力というものが理解されています(詳細については本稿を実際にお読みください)。
 ファンタジーという括りでありながら、ライトノベル系と児童文学系では何が違うのか? 私には正直よく分かりません。ただ、ライトノベル=文庫=お小遣いで買いやすい。児童文学=単行本=お小遣いで買い難い(=学校の図書館で読む)。という文庫か単行本かというパッケージの違いから、ラノベは自発的に読むものであるのに対し、児童文学は大人が買い与えるものである、という傾向はあるのではないか思います。
 また、ライトノベルの表紙のほとんどがアニメ風のキャラクターが彩っているように、ライトノベル=キャラクター小説という理解が広く共有されている一方で、児童文学のファンタジーは伝統的な寓意性(=寓話性)のようなものを維持している、といった内容的な差異も指摘できるかもしれません。ですが、そうした点についてはどっちもどっちじゃないかという気もします。
 ただ、ライトノベル化する児童文学という現象が指摘される一方で、ライトノベルのメジャーレーベルである電撃文庫から紅玉いづき『ミミズクと夜の王』のような作品も刊行されていますから、両者の境界線がよく分からないままに今後は解消されていくのかもしれません。ですが、両者の間には超えることのできない壁が厳然としてあるような気もします(特に児童文学側に*1)。今後の成り行きを長い目で見ていきたいです。
【関連】
往復書簡「ライトノベルと児童文学のあわい」時海結以・くぼひでき
『とある飛空士への恋歌』(犬村小六/ガガガ文庫) - 三軒茶屋 別館

小説新潮 2008年 09月号 [雑誌]

小説新潮 2008年 09月号 [雑誌]

*1:例えば、宮部みゆき『ステップ・ファザー・ステップ』は青い鳥文庫化に際して短編がひとつ削除されています。性的・暴力的に刺激の強い描写はやはり児童文学としては好ましくないものとされているようですね。