『バクマン。』は『DEATH NOTE』へのアンサーコミックかもしれない

 大場つぐみ小畑健の『DEATH NOTE』コンビによる漫画家を目指す少年たちのマンガ『バクマン。』。ネット界隈でも評判が良いようです。
 まだ連載第2回の段階ですので考察というほどのものは出来ませんが、思ったことをつらつらと。
 フジモリの認識では、『DEATH NOTE』は、「セカイ系」に対するアンチテーゼとして描かれていました。例えば宇野常寛ゼロ年代の創造力』では『DEATH NOTE』をアニメ『コードギアス』と同じ流れに配し、それらを「セカイ系(=「引きこもり」に繋がる自己に閉鎖した世界)」に対し「決断主義(=引きこもってられない。なんでもいいからやらなきゃ、の世界)」と称しました。*1
 実際、『DEATH NOTE』は「世界を変える強大な力を持ちながらも個人との関係に終始する」セカイ系に対し、「世界を変えるほどではないが特殊な力を入手した主人公が世界を変えていく」物語という意味で「セカイ系」に対するアンチテーゼとして強力なマンガであったと思います。
 一方で、『DEATH NOTE』が提示したテーマは『全能感』でした。『DEATH NOTE』が連載された2003年は家庭でのインターネット普及率が60%を越え、まさに「個人」が「世界」と直結することが可能となっていく過渡期でした。「デスノート」により全能感を得た月が「新世界の神」となっていく姿は、「世界」と直結することにより自身の能力は持たない人間が「根拠なき全能感」を持っていく姿と重ね合わせることが可能かと思います。
 前述したコードギアスの監督である谷口悟朗は、事前リサーチの結果現代の若者を

「夢のようなスゴイものを、努力をしないで獲得できる」という思い込みが今の若い人にはある

ととらえ、その結果を踏まえアニメを制作したとのことですが、このインタビューの内容も「根拠なき全能感」という側面を裏付けていると思います。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080820/168407/
 その『DEATH NOTE』コンビが満を持して始めた『バクマン』ですが、連載1回目で主人公はこんな言葉を口にします。

 すでに、「自身の限界を線引き」しているのです。
 もちろん物語の枠組みとして「非現実的な現象が起こりうる世界」と「そうでない世界」という違いはあるにせよ、「新世界の神になる」とのたまった月とは真逆の志です(笑)。
 乙木一史は自身のブログでヒグチアサ『大きく振りかぶって』と並べ評していますが、確かに『おおぶり』も「自身の限界を踏まえたうえで、それでもベストを目指す」という点で共通している部分はあるかと思います。
 『DEATH NOTE』が「全能感」を描く物語であるならば、『バクマン。』は「能力の限界に対する認識=限能感*2」を描くのではないでしょうか。そのためには、当然昨今のマンガではあまりみられない「努力」についての描写もあるのかもしれません。
 まだまだ連載2回目なのでこの物語がどう転んでいくのか皆目見当がつきませんが、少なくとも現時点では『DEATH NOTE』に対するアンチテーゼ、というよりアンサーコミックになるような気がしますし、逆にそういう展開にならなかった場合や人気が出なかった場合は、「時代がマンガに求めるもの」がかえって浮き彫りになる気がします。
 『バクマン。』の今後に要注目、です。
【参考】ミステリやファンタジーにおける「全能感と無能感」 - 三軒茶屋 別館

*1:個人的には『ゼロ年代の想像力』にはいろいろ思うことあるのですが今回は割愛します。

*2:フジモリの造語