嵐の予兆。『バクマン』7巻書評

バクマン。 7 (ジャンプコミックス)

バクマン。 7 (ジャンプコミックス)

6巻で病という「試練」に遭遇した「亜城木夢叶」ことサイコー・シュージンの二人。この巻では、さらなる試練が二人に襲いかかります。
前巻の引きを受け、ジャンプ編集部では打ち切り作品について打ち合わせが行われます。一作は蒼樹・中井ペアの「hideout door」、そしてもう一作はサイコー・シュージンの「疑探偵TRAP」でした。
病による休載というハンディキャップはあったものの、二人はショックに打ちひしがれます。そしてこの打ち切りは、新たなる戦いの序章でした。
亜豆にはげまされ、次回作の検討を始める二人。しかしながら、サイコー・シュージンの二人の「描きたい」漫画と編集者・港浦の「描かせたい」漫画の方向性が微妙に食い違ってきます。
自身たちの特性を活かし「シリアス」な漫画を描きたい二人に対し、港浦は「ギャグ」を描かせようとします。

「角を矯めて牛を殺す」ということわざがふさわしいこのやりとりですが、現実の漫画界でもこのあたりは今も昔も変わりません。
漫画家・萩尾望都はエッセイ集『思い出を切りぬくとき』で編集とのやりとりについてこう書いています。

創作と経済の相対関係のバランスが保たれている場合はいいが、経済的相対関係が創作より勝るとしばしば資本対労働の悲劇が生じる。バランスが崩れるというのは、作家の描きたい作品を編集が買ってくれず、しかも作家には養わなければならぬ人間(妻子、両親、自分自身、等)がいて、不本意ながら編集の言うとおりの作品を描いても金が必要な場合である。よっぽど気丈夫な人でない限り、これは胃を悪くする。
萩尾望都『思い出を切りぬくとき』P85)

描きたいものが描けない漫画家の苦悩はいつの時代も同じです。
同書では、彼女の代表作でもある『トーマの心臓』のエピソードについても書かれています。
長期連載を依頼されて構想を立て、連載された『トーマの心臓』。しかし編集者の変心により話を短くまとめるようやんわりと言われます。

それからは、編集と私の出さぬ尾のつかみ合い。
私は埼玉の山奥から週に二度は編集部を訪ねて、もうちょっと連載続けさせて下さい、多分、来月終わります、もう少しで終わりますと言いながら夏が過ぎるころには『トーマ〜』は五位六位のアンケートがとれるようになり、編集の態度はかなり軟化した。なかなかつらい。お互いに。
萩尾望都『思い出を切りぬくとき』P20)

『思い出を切りぬくとき』(萩尾望都/河出文庫) - 三軒茶屋 別館
こうしてみると、サイコー・シュージンの二人は良くも悪くも「いい子」なんだなあ、と思わせます。
話を『バクマン。』に戻しまして、サイコー・シュージンの二人と編集・港浦との激突はさらなる火種を生みます。
二人はシリアス・ギャグの2本の連載ネームを連載会議にかけてもらうよう提出したほか、港浦には内緒でシリアス短編をライバル・新妻エイジが審査員をしている「月例賞」に応募します。
これまでの巻で、読者もジャンプという「ルール」について理解したところでその「ルール」に沿って新たに連載を勝ち取ろうと努力する。やっていることは「疑探偵TRAP」が連載を勝ち取るために辿った軌跡と同じですが、「ルールを探りながら連載を勝ち取る」1回目に対し、2回目を「ルールを知った上で連載を勝ち取る」という手法にするだけで、新たなメタ視点を生み、読者に飽きがこないよう進めています。このあたりの進め方は非常に巧みだなぁ、と感心します。
2種類のマンガのネーム、そして1作の短編をひっさげシリアス作品を描きたい二人に対し、それでも港浦は「ギャグ」を描かせようとします。
この巻では、担当・港浦の空回りっぷりが強調されています。原作者の大場つぐみは、

Q.『バクマン。』の原作を書くうえで心掛けていることは?
A.『DEATH NOTE』の時からですが、「良い・悪い」「正しい・正しくない」に関わらず、極端なものの考え方を入れることです。『バクマン。』でいうと、新妻エイジの「嫌いなマンガをひとつ終わらせる権限をください」とか、サイコーと亜豆の恋愛とかです。それを入れることで読者が、「これはないだろう」とか、「自分はありかな」と色々考えてくれると思うんです。これも漫画を楽しんでもらうひとつの手段になるのではないかと私は考えています。
(QuinckJapan2008年12月号P53、大場つぐみインタビュー)

と言っていますが、ダメダメな担当を描くことで読者に考える、あるいは突っ込ませる余地を生んでいます。
もちろん、ダメダメな編集といっても現実にあった訴訟レベルに達する本当にダメダメな編集者ではなく、あくまで除菌され表現を柔らかくしての「ダメダメ」なのですが、それでもかつ、「編集者と漫画家の力関係」を思わせる描写が続きます。
また、優秀だった前任の服部と否が応でも読者は比較してしまいます。
これは「編集者と漫画家」というよりも「会社の上司と部下」における関係と同じなのですが、港浦がダメダメな理由としては、「自身のエゴを第一に考え、相手を見ていない」という一言につきます。
港浦はエネルギッシュであり熱意は相当にあるのですが、サイコー・シュージンがどのような趣味・嗜好や特性を持ち、「どうすれば伸びるのか」について全く考慮していません。
「ジャンプでギャグマンガを掲載する」という自身の野望のために二人を利用する、という構図にもとれる彼の行動は、おそらくほとんどの読者が港浦に同情の余地なしと思っているかと思います。
途中でギャグマンガを推進するために過去のジャンプマンガの傾向を膨大な資料を基に調査しまとめる、というバイタリティを持っている一方で、シリアスものを描きたいという二人の声を全く聞き入れない狭量さを持つ港浦の行動は、まさにこのマンガにとっても一つの「ストレス」であり、暗雲を予想させます。
最終的には港浦の熱意にほだされギャグマンガを構想する二人。そしてシュージンの前に現れたかつてのクラスメイト・岩瀬。

次巻のさらなる嵐を予感させる「引き」。派手なバトルもない地味な物語を手を変え品を変え読者の興味をひっぱる手法はお見事であり、次巻もまた楽しみです。
【ご参考】
『バクマン。』と『DEATH NOTE』を比較して語る物語の「テンポ」と「密度」 『バクマン。』1巻書評
『バクマン。』と『まんが道』と『タッチ』と。 『バクマン。』2巻書評
『バクマン。』が描く現代の「天才」 『バクマン。』3巻書評
編集者という「コーチ」と、現代の「コーチング」 『バクマン。』4巻書評
漫画家で「在る」ということ。 『バクマン。』5巻書評
病という「試練」。『バクマン』6巻書評
嵐の予兆。『バクマン』7巻書評
キャラクター漫画における「2周目」 『バクマン。』8巻書評
「ギャグマンガ家」の苦悩 『バクマン。』9巻書評
「集大成」への道のり 『バクマン。』10巻書評
第一部、完。 『バクマン。』11巻書評
「創造」と「表現」 『バクマン。』12巻書評
スポーツ漫画のメソッドで描くことの限界について考察してみる。 『バクマン。』13巻書評
七峰という『タッチ』の吉田ポジション。 『バクマン。』14巻書評
「試練」と「爽快感」 『バクマン。』15巻書評
天才と孤独と孤高と。『バクマン。』16巻書評
リベンジと伏線と。 『バクマン。』17巻書評