『忌館―ホラー作家の棲む家』(三津田信三/講談社文庫)

忌館 ホラー作家の棲む家 (講談社文庫)

忌館 ホラー作家の棲む家 (講談社文庫)

 作中に著者自身の名を冠した人物が登場するというのはミステリではよくある趣向です。エラリイ・クイーンのひそみに倣って、というのが一番の理由だと思いますが、そのことをミステリにあまり詳しくない方に説明しようとしますと、とかく作者と作中人物とがごちゃ混ぜになりがちです。そんなごちゃ混ぜ感を演出としてあえて狙って描かれたものが本書です。
 作中人物として登場する三津田信三。これはもちろん、著者・三津田信三とは別人なのですが、その割には、編集者としての経歴など重複する箇所が多すぎます。他にも実在する人物の名前がいくつもでてきます。虚構の中に持ち込まれることで現実も虚構となりますが、しかしながら虚構と言い切ってしまうのにも抵抗を感じます。そんな現実と虚構とが曖昧になってしまう感覚。それこそが著者の意図したものなのです。
 三津田信三という出版社に勤める編集者が、仕事の合い間をぬって同人誌への執筆活動を開始します。その作品のタイトルは『忌む家』。三津田は執筆のために、ホラー作品を書くのに最適の雰囲気を持った家を偶然発見し、実際にそこに住むことにします。しかし、それが本書の事件が起きるキッカケとなります。
 「分からない」ということは、一方ではミステリ的な知的好奇心の源泉であり、他方ではホラー的な恐怖の源泉でもあります。どちらを重視するかでジャンル的な興味・読者層というのも変わってきますが、著者は江戸川乱歩というミステリ界の巨人にして耽美に満ちたホラー界の巨匠を接点として、さらにはミステリの話題とホラーの話題とをバランスよく提示することによって、ミステリともホラーとも断定し得ない独特の雰囲気を作り出していきます。また、手記(実際には奇妙な小説)という表現形式もそれに一役買っています。そのテキストは一応は読解の対象となります。しかし、他方で手記というのは主観の非常に強い形式です。なので、描写がくどい割には客観性と信頼性に乏しくて、本書の場合にも何が起きているのか分からない箇所がいくつかあります。そうした謎にさらに拍車をかけるのが、作中作『忌む家』とのメタレベルでの混濁です。三津田信三の作品である『忌む家』。自分自身の意志で書いているはずなのに、そこにはなぜか「何かに書かされている」という感覚が拭い切れません。さらにはその後に生じる不可解な事象。幽霊や妖怪といった怪異が出てくるわけでもなければ、陰惨な光景が目の前に繰り広げられるというわけでもないのに、そこはかとなく漂う得体の知れない恐怖感。何が分からないのか分からないという恐怖は、しかしながら読者としてはページをめくる原動力にもなってしまいます。だから読むのを止められません(笑)。
 ミステリとホラーとの融合が、メタレベルでの仕掛け・虚実の混濁という仕掛けと合い間って、とても高い水準で実現されています。結果的にはミステリ寄りに仕上がっているとは思いますが、それでもホラーファンにもある程度喜んでもらえるのではないでしょうか。
(以下、既読者限定のネタバレです。未読の方は絶対に読まないでください。)
 本書の構造については、黄金の羊毛亭さんの感想(特にネタバレ感想)が詳しいので、ぜひお読みになってください。
 それで、事件の真相についてですが、跋文において3つの可能性が示されています。すなわち、
1.過去に読んでいた本や資料の記憶が人形荘に住むことで蘇った。
2.幽霊小説を書きたいという思いと人形荘という「家の記憶」がリンクした。
3.記憶がないだけで、三津田信三自身が信濃目殺人事件の犯人である。
 の3つなわけですが、これはもう3.に決まっています。本書のラストにおいて三津田は、「私が津口十六人という名前を持つ人物を『忌む家』に登場させたのは、友人の祖父江耕介からその名前を聞いたあとだったんだ」と言ってますが、それに対して稜子=惟人は「そんなことは関係ないじゃない」と述べています。ということは、本書冒頭で示されている『百物語という名の物語』を投稿したのは稜子=惟人ではないということになりますし、じゃあ誰なのか? となりますと三津田信三しかいないでしょう。ここに記憶の断絶が見て取れます。一体どういうことなのかといえば、解離性同一性障害(参考:Wikipedia)、俗にいう多重人格による記憶の喪失と考えるのが手っ取り早いと思います。そう考えると、前述の『百物語という名の物語』を投稿したことや、『忌む家』の執筆過程において三津田の知らないうちに続きが書かれていたことなどの説明が容易につきます。
 もしそうだとすると、物語のメタ構造も少し変わってきます。表人格である三津田信三からすれば、『ホラー作家の棲む家』が現実(似非私小説?)で、『忌む家』が虚構、つまり作中作ということになります。しかし、裏人格である津口十六人からすれば、『忌む家』こそが現実で、『ホラー作家の棲む家』の方が虚構であり作中作ということになります。メタレベルの逆転現象とでもいうべきものであり、まさに虚実の混濁ということがいえるでしょう。
 もっとも、何もそんなに難しく考える必要もないのかもしれません。本当は全然記憶なんか失っていないのに、記憶を失っている振りをして事件の生き残りである稜子=惟人を返り討ちにして(これはもう完全に私の想像というか脚色ですが)、さらには素知らぬ顔をして一家殺人事件の惨劇を衆目に晒した、というのが真相でも別におかしくはありません。何といってもこの物語自体が小説、つまりは虚構なのですからね。そう考えると、本書は断然ホラー側にシフトすることになります。一応ミステリ読みを自称している私がこんなことを言うのも変ですが、こっちの解釈の方がもしかしたら好みかもしれませんね(笑)。