『空の中』(有川浩/角川文庫)

空の中 (角川文庫)

空の中 (角川文庫)

 『塩の街』電撃文庫からデビューした有川浩が電撃の単行本として発表したことでラノベ界隈的にちょっと話題になった『空の中』が、角川文庫に文庫落ちしました*1
 本作についてはフジモリが、あらすじ的なものはプチ書評で、セカイ系的な観点からは本館書評で既に語ってくれてますので、その辺のことはすっ飛ばします(笑)。
 解説で新井素子も述べていますが、キャラクタがとても魅力的です。そんなキャラクタたちの魅力が会話よってさらに引き立ってきます。本書において会話はとても重要なものです。
 【白鯨】とコンタクトをとろうとする高巳たち。異生物とのコンタクト・意志の疎通は困難を極めます。他者を知らず単体として完全な存在であった【白鯨】。一方、日本政府という組織の代表として【白鯨】とコミュニケーションを図る高巳たち。

 例えば、君がAという意思を持ってて、俺がBという意思を持ってたとするだろう? 君はAを俺に渡して、俺が君にBを渡す。君と俺はそれぞれにAとBという二つの意思を情報として手に入れる。このAとBを、そのままAとBとして処理するのが君らだ。君らは必要に応じて、保存してあるAとBから好きなほうを選ぶ。キャパが無限のデータベースみたいなもんかと俺は思ってるんだけど。これに対して、手に入れたAとBを足したり捻ったりこねくり回したりして新たにCやらDを作り出しちゃうのが俺――つまり人間なわけ。
(本書p337〜338より)

 これは【白鯨】に対して、人間が行う意識のすり合わせというものを説明している箇所の一節ですが、こうした情報の伝達と形成過程はミーム(文化的遺伝子)という単語を彷彿とさせます。そもそもミームという概念自体が遺伝子を元にして考え出されたものなですが(参考:Wikipedia)、これが、ある意味単細胞的な生物である【白鯨】と多細胞な生物である人類との生物学的な差異としてもフィードバックしてくるところが興味深いです。
 それに、分裂してしまった【白鯨】を《全き一つ》に統一しようとする過程での『解離性同一性障害』(平たく言えば多重人格)への見立てといった個人と組織との意思決定の比喩や比較などは、SFファンからすればもう少し踏み込めばいいのにと惜しむ声が聞こえてきそうではありますが(笑)、でもとても面白いです。
 【白鯨】と人類との会話だけではありません。光稀と高巳との会話、瞬と佳江との会話。そこから紡ぎだされる言葉には、読んでてニヤニヤしてくるものもあれば、思ってもみない言葉が出てきてしまったり、その反対に言うべき言葉が出てこなかったりすることもあります。そんな風にして間違った方向に二人の関係が進んでしまった場合でも、他の誰かが間に入ることで再び歩みを共にすることができるようになります。人と人との間と、【白鯨】と人との間のコミュニケーションとの対比によって生まれる奥行きを雰囲気付けとして、作者の故郷の言葉である土佐弁が上手く機能しているのも見逃せません
 会話によって生まれるものがあるからこそ、そうしたものがなかなか得られない真帆の不遇が目に付きます。瞬と真帆は共に【白鯨】によって父親の命を奪われました。なのにその後の状況はかなり異なります。比較しても仕方がないことではありますが、でも比較せずにはいられない。個と個をつなぐ線とそこから生まれる想いは、【白鯨】どころか人間にだってなかなか理解するのが難しくて、だからこそ、そのためのツールのひとつとして物語というものがあるのでしょう。
 巻末のあとがきで、有川浩は本書について「大人ライトノベル」という言い方をしています。「大人ライトノベル」とはいったい何なのか? 本作が単行本として刊行されて、電撃文庫ではなく角川文庫に文庫落ちしたという経緯がありますので、そんなことをついつい考えてしまいます。そもそも”ライトノベル”という言葉自体の定義づけがとても困難なのですが、基本的には中高生向けの小説ということで良いでしょう。それの大人向けということですから、大人になっても残っている中高生的な感性に訴えかける本、といったニュアンスでいいのかなぁ、と思います。

「私の若いころはライトノベルなんて言葉もなくてコバルト文庫とかソノラマ文庫など少年少女が純粋に楽しむ本があった。成長した彼らが感性を満足させるジャンルがなかったと思う。そんな大人たちにも届けたい思いが強くて」
【土曜訪問】「『図書館戦争』シリーズが話題 有川 浩さん(作家)」(東京新聞WEB版)より)

 この例えですと、私的にはソノラマ文庫がしっくりときます。中高生から大人への補助線が引かれていた物語にはいくつか心当たりがあります。そんなソノラマ文庫も今はありません。価値観が多様化する中で幅広い読者に受け入れられる作品を描くのは難しいことだと思いますが、本書はそうした挑戦の中から生まれた傑作だといえるでしょう。オススメです。

*1:ちなみに、文庫化にあたって加筆、修正が加えられているとのこと。また、巻末には文庫版あとがき、後日譚『仁淀の神様』、新井素子による解説が付いています。