『バレエ・メカニック』(津原泰水/ハヤカワ文庫)

バレエ・メカニック (ハヤカワ文庫JA)

バレエ・メカニック (ハヤカワ文庫JA)

 本書は三章からなる作品ですが、解説の柳下毅一郎の言葉を借りれば”『バレエ・メカニック』は華麗なるシュルレアリスム小説としてはじまり、不遜なサイバーパンクSFとして終わる(本書解説p284より)”作品です。
 第一章では”君”という二人称視点による語りが用いられています。二人称による語りは、作中の登場人物の視点を読者に直結させる押し付けがましい描写です。それでも、”君”が無個性な人物であれば、そうした押し付けがましさもいくらか緩和されますが、本書における”君”には木根原という名前があります。作中のどこにも読者である「私」の居場所はありません。それでは何ゆえ本章が”君”という二人称という特殊な視点による語りを採用したのかといえば、それは、作中で生じる不可思議な現象を読者に体感させるためです。
 木根原には理沙という娘がいますが、9年前に海辺で溺れてから昏睡状態となっています。脳幹の機能は活発でありながら大脳皮質の大半が壊死している、いわゆる植物状態で長期間の入院生活を送っています。そんな理沙の脳と都市との間に、ある日、ネットワークが結ばれます。”命題、都市は人間の脳を代替しうるか?”(本書p66より)

「隈なく巡らされたワイヤー、ひっきりなしに飛び交う電磁波、空間を埋め尽くすノイズ、無尽蔵に蓄積され増殖を続ける情報、そのなかで暮らす個々の人間の脳や神経――都市の無数の要素が絡み合った結果、奇蹟的なネットワークが形成され、理沙ちゃんの壊死した新皮質の機能を、いささか歪んだかたちで担おうとしている。どこまでが彼女の意志や夢想で、どこまでがネットワーク自体の夢なのかは誰にも判らない。きっと理沙ちゃんにも」
(本書p58〜59より)

 構造としては極めてシンプルなSFで、決して突飛なものではありません。個人と都市間とのフィードバックは現実に体感していますし、それがなければ生活することはできません。ただ、そうした日常的な都市のネットワークというものは、普通は特定の個人にイメージに寄りかかるものではなくて、集団的無意識的なものだといえます。それが、個人的無意識によって完全に乗っ取られます。超現実的幻想が、その都市に住む多くの人々の現実を飲み込んでいきます。そうした幻想によって、個々人の現実が崩壊していく有り様や、幻想を押し付けられる暴力的な感覚を表現するための手段として、二人称という特殊な語りが採用されているのだといえます。また、本書は”君”(男)と少年との性行為の場面から始まります。AVにハメ撮りと呼ばれるジャンルがあるように、性行為には一人称視点が求められる傾向が強いです。そうした性行為の場面を最初に持ってくることによって、二人称のノイジーさが強調されています。きわめて巧みな構成です。
 さらに、本書の語りは、「第二章 貝殻と僧侶」では”〈彼女〉”、という有性的であるがゆえに無性的な視点からの語りが用いられています。また、「第三章 午前の幽霊」では”僕ら”という一人称複数視点から三人称単数視点になって、そして再び一人称複数視点へといった視点の切り替えが行われています。それは、視点というよりも視野もしくは視界の切り替えといった理解のほうが適切かもしれません。「何を見たか」は「誰が」見るかによって変わってきます。イメージを共有しようとすれば抽象化せざるをえなくて、具象化しようとすると結局は個に還元されてしまいます。そんな幻想と幻視者の関係が語りの妙によって描かれています。
 シュルレアリスム小説としてはじまりSF小説として終わるということは、換言すれば、ファンタジーとしてはじまりSFとして終わる、ということになるでしょう。ファンタジーとSFとの境い目とは何かを考えると、科学と魔法の違いについてテッド・チャンの以下の言葉が参考になるかと思われます*1

 わたしの考える魔法と科学の本質的な違いはこういうことだ。魔法の効力は、その行使者に依存する。魔法は、だれでも同じようには使えない。天賦の才を持つ人間にしか使えない魔法もあれば、長年の研究によって魂を清めた人間にしか使えない魔法もある。正しい心を持つ人間にしか使えない魔法もあれば、使う人間の善悪によって違うふうに作用したりもする。
 科学では、こういうことはまったく起きない。銅線のコイルに磁石を通せば、あなたが誰だろうと、あるいは心の善悪にかかわらず、電流が流れる。
(S-Fマガジン2008年1月号「テッド・チャン特集」収録『科学と魔法はどう違うか』p46より)

 魔法=ファンタジー、科学=SFに置き換えると、都市幻想が理沙個人を原因としたものであれば、それはファンタジーであるといえます。ですが、理沙の存在が確認できなくなりネットワークという概念に落とし込められ、それでもやはりそうした現象が生じるのであれば、それはSFということになります。そうしたジャンル的シフトが行われることによって、幻想が単なる幻想として終わることなく、SFに落とし込まれることで現実的な幻想へと帰着しています。そこには、幻想と現実との緊張関係を読み取ることもできます。繊細にしてしなやかで、優美にして滑稽な機械仕掛けのバレエです。オススメです。

S-Fマガジン 2008年 01月号 [雑誌]

S-Fマガジン 2008年 01月号 [雑誌]