『金底の歩 成駒の銀蔵捕物帳』(井川香四郎/時代小説文庫)

金底の歩―成駒の銀蔵捕物帳 (時代小説文庫)

金底の歩―成駒の銀蔵捕物帳 (時代小説文庫)

 私はミステリ好きではありますが、捕物帳といったジャンルは正直言ってあまり詳しくはありません。そんな私が何故本書を手に取ったかといえば、タイトルが将棋ヲタの感性に反応してしまったからです(笑)。
 本書は、大の将棋好きで自身も相当な指し手である岡っ引きの銀蔵と、新米同心・小見とのコンビによる捕物帳で4編が収録されています。といっても、ほとんどは銀蔵が活躍するだけですけどね(笑)。岡っ引きと同心の関係はノンキャリとキャリアのようなものと言えば分かりやすいでしょうか。エリート街道をひた走るもの知らずの若造に対し、経験豊富で人情を知る岡っ引きの銀蔵が身分や立場に縛られることなく人生訓を垂れるという大人の読者に優しい仕様となっています(笑)。
 そんな捕物帳ですが、本書の特色は何といっても物語に将棋が深く関わっている点にあります。具体的な盤面や指し手が現れるわけではありませんが、将棋についての格言や考え方が随所に出てきています。

 鼎談こそが将棋の面白さである。つまりは岡目八目ではないが、人の指しているのを横で眺めながら、「ああでもない、こうでもない」と指している当人とは関わりなく話すのが楽しいのである。
(本書p82より)

 ああでもないこうでもないと考える面白さ。それは捕物と将棋の双方に共通する要素だといえます。そもそも、江戸時代において将棋は庶民にとってもっとも親しまれていた娯楽のひとつでもあります。なので、捕物帳と将棋は元来とても相性の良いものだと言えるでしょう。

放れ駒

 岡っ引きの銀蔵と新米同心・小見が手掛けることになる最初の事件。馴染みの町人らが毒茸を食べて倒れて、木綿問屋・肥後屋の主人は亡くなってしまったという。一見するとただの茸による食中毒とも思えるところ、銀蔵は聞き込みを開始する。そこには思いもよらぬ真相が……。放れ駒を活用せんがために起きた悲劇といえるでしょうか。

金底の歩

 周りの誰からも好かれていた男の死。背後に浮かび上がるのは多額の借金。図らずも銀蔵はその高利貸しの隠居と将棋を指していて……。
 俗に一般庶民が大金持ちになることを成金といいますが、その由来は将棋用語です。将棋で一番弱い駒である歩。前にひとつしか進むことのできない駒ですが、相手陣に入ることでと金に成ることができます。そうして成った駒のことを成金(と金)といいます*1。そんな金に成りうるだけの潜在能力を持ちながら、それでも金の底に打たれた歩はときに抜群の存在力を示すことができます。それでも、歩は歩であり金は金なのです。”歩のない将棋は負け将棋”、”一歩千金”、など、歩にまつわる格言はとても多いです。

桂馬の高飛び

 阿片密売の売人の捕縛。雪隠詰めにできるはずのところ思わぬ逃げ道が。なぜ町方の動きが知られていたのか?
 桂馬は特殊な動きをする駒です。目の前の駒を飛び越える動きができるので相手の意表をつくことができる反面、ひとつ前に進むことができないので歩にすら負けてしまうことがあります。”桂馬の高飛び歩の餌食”とは桂馬の活用を狙う際には慎重に、という意味の格言です。もちろん、慎重になり過ぎて機を逸してもいけません。そうした勝負の呼吸は、人生に様々な場面においてもいえることだと思います。桂馬には両天秤という使い方もあります。桂馬によって二つの駒が狙われたときにはどのように対処するべきか。一局の将棋で”待った”はできませんが、それでも形を整えることはできます。投了を受け入れるのも将棋の嗜みのひとつです。

詰まざるや

 銀蔵は型破りな岡っ引きです。礼節や定法を知らないわけではありませんが、筋が通らないと思えば相手が誰であろうとトコトン追求していく根っからの江戸っ子です。上司であっても世間知らずの同心なんぞ手下同然の扱いです。そんな銀蔵ですが、大の将棋好きであるがために、御城将棋の御三家のなかでも実力主義で知られる伊藤家の当代”希代の天才”宗看に対しては、相手が若干十九歳の若者であるにもかかわらず、自然と”先生”と呼んでしまいます。銀蔵の独特の価値観が面白いです。そんな伊藤家に入り込んで銀蔵が調べることになる事件。なかなか答えの見えてこない、まさに詰め将棋のごとく複雑に駒が配置されている事件ですが、解いた先に必ずしも感動があるわけではないのが将棋と人生の違いというべきものなのでしょうね。

 どちらかといえば理よりも情が優先される物語なので、ミステリ読み的には必ずしも満足とはいい難い部分もあります。ですが、将棋という題材がそうした点をかなりカバーしてくれています。勝負事に見立てた相手との駆け引き。勘を単なる勘として否定するのではなくその価値を認めること。指し手と人間性との関係など。どちらかといえば捕物帳というよりも将棋を題材とした小説としてオススメした方が適切ではないかと思ったり思わなかったりです(笑)。
【関連】『はなれ銀 成駒の銀蔵捕物帳』(井川香四郎/時代小説文庫) - 三軒茶屋 別館

*1:なお、本書で説明されている”と金”の由来ですが、必ずしもそれが定説だとは言い切れないので、興味のある方は調べてみると面白いでしょう。