『ダンシング・ヴァニティ』−筒井康隆式ゲーム的リアリズム−

ダンシング・ヴァニティ

ダンシング・ヴァニティ

「君は明晰夢の話をしてくれたが、これは夢だと自覚できる明晰夢というものがあるのなら明晰現実というものもあっていい筈で、あれはおれにとって明晰現実だった。映画監督が射殺されたこともおれには明晰な現実だし、それが現実であることもおれは明晰に意識していた。しかしそうしたこと全体が夢であるとするのなら、もはや何もかもぐちゃぐちゃで、何がなんだかわからない」
「その君の混乱は簡単に解決できるよ」川崎医師はきっぱりとそう言ってから断言した。「すべては現実なんだ」
(本書p67〜68より)

 本書は筒井康隆の”らしさ”が炸裂した作品です。これまで筒井作品でなされていた試みに、「ゲーム的リアリズム」の視点が加わることによって物語の自由度が増しています。
 物語の冒頭から現れる不思議な描写。主人公の家の前で誰かが喧嘩をしていて、その巻き添えを食わないように家族を避難させて、そしたらまた誰かが家の前で喧嘩をしていて家族を避難させる描写がされて、それが何度も繰り返されます。「何じゃこれは?」と思われるかもしれませんが、決して反復乱丁ではありません*1。その繰り返しは一言一句同じものではなくて微妙に変えてあります。明らかに遊んでます。いかにも筒井康隆らしいです。そうした反復記述が何度か行なわれた後に次の場面に進むのですが、そこでもまた次の反復記述が行なわれます。まるでADVで選択肢をいくつか試した上で先に進むかのような奇妙なループ的展開です。もしくは、いわゆる「平凡な日常」をシニカルに小説として表現したものとして読むこともできますし、そう思えば何となく納得できてしまうのが不思議です。かと思えば前の場面と交じり合ったより複雑な反復記述が行なわれたりして、これはいったい何なんだと戸惑っているうちに突然場面が切り替わります。
 こうしたストーリー展開が音楽をイメージして描かれたものであることは間違いありません。作中で登場するシンプルな歌詞の音楽。それは本書の構成そのものです。つまり、Aメロが何回か繰り返された後にBメロへと進み、それもまた繰り返されて次に進むといったことが続けられます。そうしてだんだんとハーモニーに見立てた虚実の層が厚みを増していきながら本書の音楽的物語はフィナーレを迎えることになります。”音楽”と言い切ってしまうとちょっと表現が綺麗過ぎるかもしれません。突然登場するコロス(参考:Wikipedia)は今どきの小説(ここではあえて「ライトノベル」を引き合いに出します)の一人称視点でありがちな説明的な一人称語りの文章を異化して強調する目的で出したものと推察されますが、こいつらの雑音ぶりといったらありません。ミュージカルみたいでいちいち神経に障ります。しかしこれもまた作者の意図した効果なのでしょう。本書の主題は「家族の団欒」という極めて平凡なものなのですが、それをあくまでも平凡なまま、ここまで特異な物語に仕立て上げたのはさすがだと思います。
 日常のループ、夢と現実の混乱、小説的なお約束の破壊。そうしたことは『時をかける少女』や『パプリカ』、あるいは『虚人たち』などなど、筒井作品のファンにとってはお馴染みともいえる素材です。しかし、これまで筒井作品においてそうした試みがなされる場合には読者がそれを受け入れるための準備がきちんとなされていました。例えば、『時かけ』や『パプリカ』ではSFというジャンル的な制約下での物語でした。また『虚人たち』などのメタ小説の場合には、メタであることをきちんと断った上で小説のお約束を破る作品を描いてきました。前作『巨船べラス・レトラス』などその好例です。このように、これまでの筒井作品は一見破天荒なようであっても基本的にはフェアなものでした。
 ところが本書は違います。反復記述・虚実の混乱・時空間的小説的お約束の無視といったものが、ジャンル性に依拠することもなければメタな視点から説明されることもなく、ただただそういうものとして物語は進んでいきます。そしてそれは、おそらく本書を読んでいる読者にとっても実はそんなに奇異なことでもなくこれはこれとして受け入れられるのではないでしょうか。筒井がこのような作品を描いた理由は何なのだろうと考えたときに目にとまったのが、巻末の参考資料のなかに挙げられていた東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生』(講談社現代新書)です。
 筒井康隆ゲーム的リアリズムというものを好意的に解釈していることはこれまでの著者の言動から窺い知ることはできました。
【参考】筒井康隆の次回作はライトノベル - 三軒茶屋 別館
 筒井康隆がそれを文学的なものとしてどのように理解しているのかといった真意は実作品の発表を待たなければなりませんでしたが、本書はまさに筒井康隆なりの『ゲーム的リアリズム』を体現したものだといえるでしょう。
 ゲーム的リアリズムとは何なのか? 要点のみ抜き出せば以下のようなものとなります。

(前略)キャラクターのメタ物語性が開く、もうひとつのリアリズムの可能性を考えることはできないだろうか。
 ここで、そのもうひとつのリアリズムを、かりに「ゲーム的リアリズム」と説明することにしよう。それは、キャラクターのメタ物語的な想像力が、ひとつの始まりがあってひとつの終わりをもつしかない小説という形式に進入してきたときに、その接点で生まれるはずの「リアリズム」である。
東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生』p140より)

 横着な引用で申し訳ありませんが詳しく知りたい方は実物をお読み下さい(汗)。それはさておき、筒井康隆が「ゲーム的リアリズム」の概念のどこに惹かれたのかは何となく分かるように思います。先に述べてきましたように、これまで筒井康隆はSF、もしくはメタ小説の手法を用いることで、小説における表現の限界、あるいは小説よりも虚構的なものを追い求めてきました。そうした試みを読者に理解してもらうため、筒井は超虚構なる概念を提唱し、その実作としてメタ小説をいくつも発表してきました。それは旧態然とした文学・文壇への反論でもありました。
【参考】仮説:メタ=メタフィクション+超虚構 - 三軒茶屋 別館
 ところが、筒井は『ゲーム的リアリズム』の概念に触れることで発見したのではないでしょうか。自分が今まで超虚構として描いてきた面白さというものは今の若い人、特にゲームとの接近の結果として既存の小説的なお約束が緩くなってきているライトノベルの読者にはごく自然に受け入れられるものであることを。さらには、そうした読者の層は広範囲にわたってきているらしきことを。そうであるのなら、これまでさんざん書いてきたメタ小説の手法にこだわらずとも、描きたいことをそのまま描きつつ、さらに過激に小説的ではないものを小説で表現することを試みてもよいのではないか。そんな筒井康隆ゲーム的リアリズムの理解と答えのひとつの表れが本書だと思います。誤解のないように付言してきますが、筒井康隆ゲーム的リアリズムに準じた作品を書いたという意味ではありません。ゲーム的リアリズムをヒントにして、それをネタとして取り込むことで新たな筒井作品として成立させたのが本書である、という意味です。ベテランでありながらなおその作風を広げながら深めていく創作姿勢には脱帽ですし、そうした著作に触れられるのはファン冥利に尽きます。
 次回作とされているライトノベルビアンカ・オーバースタディ』は今年3月『ファウスト』誌上にて発表予定*2とのことですが、いったいどんな作品となるのでしょうか。本書を読んだ後では期待が高まる一方です。

【関連】
東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』 - 三軒茶屋 別館
『夏の名残りの薔薇』(恩田陸/文春文庫) - 三軒茶屋 別館

*1:オビに「反復乱丁に非ず」と書いてあるので。

*2:当初は今年1月の予定でしたが延期となりました。今後の予定は公式サイト(http://www.jali.or.jp/tti/)で逐次チェックしていきたいと思います。