『時間割』(ミシェル・ビュトール/河出文庫)

時間割 (河出文庫)

時間割 (河出文庫)

二兎を追うものは一兎をも得ず。

 ビュトールは『心変わり』という二人称小説を書いたりもしていてメタ視点にかなり自覚的な作家だと思いますが、本書ではさらに突き抜けた趣向が用いられています。
 物語としてのテーマ自体は正直とても凡庸ですし、そこで語られている内容も退屈なことは否めません。すなわち、異国の地に馴染めなかった若者がその滞在期間を整理するために手記を書き残そうとした。ただそれだけのことです。神話に見立てた人と都市との関係(旧約聖書のカインの物語)と恋愛模様ギリシア神話の英雄テセウスの物語)も、見立てとしての面白さは確かにありますが、お話としては「そりゃそうなるだろう」としかいいようがありません(笑)。
 しかしながら、メタミステリ、ひいてはメタ小説としての面白さは特筆ものです。本書は、ジャック・ルヴェルというフランス人の若者が、ブレストン*1というイギリスの都市に一年間滞在したときのことを記した手記です。第一部はルヴェルがブレストンに到着したの10月から始まりますが、そのことが7ヵ月後の五月の視点で語られます*2。いわば、7ヶ月前に起きた過去の出来事の探索作業に当たるわけですが、しかしながら、それを書きとめる上で現にそれを書いている現在時の影響を排除することはできません。当時は不明なことであっても時が経てば明らかになる事柄というのはありますし、そうなれば手記として書くべき内容も変わってきます。さらに、書くことによって手記の中の時間は経過して物語となっていきますが、その一方で、書いている現在の時間も当然のことながら進行していきます。さらにさらに、自らの書いた手記・テキストが現在時の時間経過・テキストにまで影響を及ぼしていきます。
 本書巻末の訳者の解説で著者の企図が紹介されています。

 『時間割』は五つの声部からなる輪唱である。(中略)第一の声部は時間の流れに沿った回想、第二の声部はふつうの日記、第三の声部は遡行的にたどられた回想、第四の声部は、すでに語られたことに、ちがう照明をあてて、時間の流れに沿って思い出してゆく再検討、第五の声部は遡行的再検討ということになり、この五つの声が第五部では重層する。
(本書p501より)

 輪唱(カノン)形式の小説による表現というのは、最近読んだ小説ですと筒井康隆『ダンシング・ヴァニティ』が印象に残っていますが、しかしながら、これだけ大掛かりで馬鹿げた試みを以って作られたものは他に例がないのではないでしょうか。
 こうした壮大な時間的迷宮を作りあげるのに一役買っているのが、二重仕掛けの推理小説というメタ小説的な構造です。本書はルヴェルの書いている手記ではありますが、その中にJ=C・ハミルトン著『ブレストンの暗殺』という架空の推理小説が嵌め込まれています。そして、『ブレストンの暗殺』というタイトルが示す二重の意味(「ブレストンで起きた暗殺事件」もしくは「ブレストン市の暗殺」)が、本書全体の重層的な構造に相関関係を生み出す役割を果たしています。
 さらには、この『ブレストンの暗殺』という推理小説を軸とすることで推理小説というジャンル的な考察も語られるのですが、それもまた本書の構造にとても深く関わっています。

彼はぼくらに、このジャンルの最良の作品において彼が敬意を表するのは、小説の内部にいわば新たな次元が出現してくる点であると言明して、それをこう説明した、読者の目の下で変貌してゆくものは、もはやたんに作中人物とその相互間の関係だけではない、それらの関係について知っていたことがらも、さらにはそれの織りなす物語の流れについて知っていたことがらまでも変貌するのだ、終局の局面、物語の決定的な局面というものは、彼がその翌週ぼくらに示したように、犯人の滅亡によって、つまり探偵が自己の正の最高点に達したと感じるあの純粋の殺人によって確認されるものだが、そういう終局の局面は、他のさまざまな局面のあとに、それを通してでなければ出現しない、だから、物語はもはや、一連の出来事の単純で平坦な映写ではない、出来事が、それに対して探偵あるいは読者がどんな位置を占めるかによってさまざまに異なった現れ方をする以上は、物語は出来事の構造の、出来事の空間の復原行為となるのだ……
(本書p263〜264より*3

 先に輪唱形式としての本書の試み・面白さというものを説明しましたけれど、言われてみれば、確かに多くのミステリはそうした面白さを自然と体現しています。コリン・デクスターのモース警部シリーズなどがその最たる例だと思われますが、作中であれこれと捻り出されては打ち消されるロジックの数々は堂々巡りを見せながらも何とか事件は解決していきます。その推理の過程は読んでてとても楽しくて、それがまさにモース警部シリーズの魅力なわけですが、では真相や犯人を後で思い出せるのかといえば、巻末の解説者ですら述べているとおり、これがまったく記憶に残らないのです(笑)。つまり、輪唱としての推理の面白さ、輪唱が積み重なるうちに浮かび上がってくる抽象的なイメージの美しさばかりが印象に残る一方で、真相や犯人といった本来であれば一番大事な要素が大事ではなくなってしまう。そんな本末転倒としかいいようがない楽しみ方が推理小説、特に本格ミステリと呼ばれるものにはあるのではないかと思います。

探偵小説では物語は時の流れにさからって語られる、いやより正確には、物語は二系列の時の流れ、つまり犯罪にはじまる調査の日々と、犯罪へと至るドラマの日々、という二つの流れを重ね合わせるのだ、これは実はきわめて自然なことである、なぜなら現実では、過去へと向かった精神の作業もまた、時間の流れのなかで、つまり他のさまざまな事件が積み重なってゆくそのあいだに成しとげられるのだから。
(本書p280より)

 犯罪からはじまる時間と、犯罪へと流れていく時間との二つの流れ。それはつまり、クリスティが『ゼロ時間へ』で表現しようとしたことを理論として説明したものに他ならないわけですが、そんな時間の二重性が、本書の輪唱形式にこの上なくマッチしています*4
 さらに、『ブレストンの暗殺』の著者自身の身に降りかかってくる殺人未遂事件(=「事故」)。それは、『ブレストンの暗殺』に書かれていることの真偽とも関わる、まさに現実と虚構とが鏡写しになったかのような状態になるわけですが、『ブレストンの暗殺』の真偽も分からなければ、現実に起きていること、自分自身が手記として書いているテキストの真偽すらも分からないルヴェルとしては、何が現実で何が虚構なのかまったく分かりません。そもそも、ルヴェルにとってブレストンに滞在していた期間はまさに霧のような時間でした。そんな時間を確かにあったものとしてすくい上げるために彼は手記を書いています。いわばブレストンという都市についての有在証明が手記の意義なのです。しかしながら、手記にすることで思い出したくない出来事がいくつも生まれ、ついには「事故」まで発生してしまいますと、彼はそれについての自己の責任を痛切に感じる一方で、その責任を他者に押し付ける考え方をも手記に書いてしまいます。もともとは有在証明のためであったはずがいつの間にか不在証明のためとなってしまっている矛盾。それもまた本書の輪唱形式と深く関わっています。
 例え自らが体験したことであっても、文字に表すことができるものしか手記には書き残せません。その一方で、文字に表すことができるものは手記に書き残せてしまいます。テセウスの神話に出てくる「プロクルステスの寝台」の逸話そのものですが、しかしながら、書き残したいものがいつまでも不変であるとは限りませんし、現に変わっていきます。そうした変容の経過をテキストに記していくことで生まれていく輪唱と終わらぬ歌声。定まらぬ因と果の循環。
 私は本書をミステリ読みとしての観点から満喫してしまいましたが、土地の持つ魔力、異邦人の孤独といったテーマもまた十分に訴求性のあるものだと思います。複雑な構造と文章の冗長さゆえに読者を選びに選ぶ作品であることは間違いありませんが、ミステリ好きな方やメタな視点に興味のある方には強くオススメしたい逸品です。

*1:マンチェスターがモデルの架空の都市。

*2:漢数字の月数は日記が書かれている現在時を示し、算用数字の月数は日記の内容の時点を示している。という何とも奇妙な注釈が付いています。

*3:終止形であるにもかかわらず句点でなく読点で区切られているので読みにくいと思いますが、これは訳者の意図によるものだそうです。曰く、文章のうねうねとつづく特徴をしすこしでも写そうと試みた工夫(本書p503より)、だそうですが、正直とても読みにくいので止めて欲しかったです(笑)。

*4:ちなみに、本書のような複雑な時間構造の作品はミステリにおいて時折見受けられます。もっとも、ミステリの場合ですと、作中の時間を読者に錯誤させるという、いわゆる叙述トリックの目的で作品が組み立てられるのが一般的です。本書の場合には作中での時間の流れが通常のものとは異なることが冒頭から述べられていますので叙述トリックには当たりませんが、それでも、どこに着地点が見出されるのか不明という意味で読者を惑わすものであるのは確かです。叙述トリックはキャラクタの属性を錯誤させるものと作中時間を錯誤させるものとの2種類に大別することができますが、キャラクタの属性錯誤型の嚆矢として知られている作品はフランスの某ミステリ作品です。本書の著者もフランスの作家だったりしますので、ひょっとしたらフランスのミステリというのは叙述トリックに特徴があるのかも知れないと思ったりもしましたが、私はフランスのミステリにはほとんど無知なので分かりません(涙)。どなたかご教示くだされば幸いです。