科学と魔法の区別と禁書目録

 A・C・クラークが残した有名な言葉に、「じゅうぶんに発達したテクノロジーは魔法と区別がつかない」というのがあります。もっとも、現実には魔法など存在しないので、両者の区別が問題となるのはフィクションの中に限られるわけですが、確かに、ときに両者の区別はとても難しいです。
 魔法がフィクションの産物なのはいうまでもないことです。しかし、科学にしてもSFなどのジャンルでそれが登場するときには、現代の科学では実現不可能なことを可能なものとして扱っているという場合(一般の科学と区別する意味で”超科学”とても呼ぶべきか)にはやはり原理が不明確です(だからこそフィクションなのですが)。そうなると、原理からして両者を区別することはほとんど不可能だと思われます。
 では、両者の区別はどのようになされるべきなのか。この点について、寡作のSF作家として知られるテッド・チャン(参考:プチ書評『あなたの人生の物語』)は以下のように述べています。

 わたしの考える魔法と科学の本質的な違いはこういうことだ。魔法の効力は、その行使者に依存する。魔法は、だれでも同じようには使えない。天賦の才を持つ人間にしか使えない魔法もあれば、長年の研究によって魂を清めた人間にしか使えない魔法もある。正しい心を持つ人間にしか使えない魔法もあれば、使う人間の善悪によって違うふうに作用したりもする。
 科学では、こういうことはまったく起きない。銅線のコイルに磁石を通せば、あなたが誰だろうと、あるいは心の善悪にかかわらず、電流が流れる。
(S-Fマガジン2008年1月号「テッド・チャン特集」収録『科学と魔法はどう違うか』p46より)

 つまり、行使者に効力が依存するか否かで魔法と科学を区別する説だといえます(「行使者基準説」とでも仮に名付けておきましょうか?)。チャンは、自らが科学と魔法の違いに興味を持つ理由を次のように語っています。

 科学と魔法の違いにわたしが興味を持つのは、それがSFとファンタジーの違いの一面を体現していると考えるからだ。この二つのジャンルの関係はひどく複雑なので、魔法と科学が両者を分ける唯一の基準だというつもりはない。SFは科学についての小説である必要はないし、ファンタジーも魔法についての小説である必要はない。だが、私見によれば、SFでは、宇宙の法則が個々の人間を区別することはない。宇宙はある人間をべつの人間と区別しないし、人間と機械を区別しない。ファンタジーでは、宇宙の法則は、人間の個性という概念を認識している。ほかに人間にとってだけではなく、宇宙自体にとって特別な個人が存在する。
(同上p47〜48より)

 SF読みとファンタジー読みの親和性が高いのはこの辺り(人間と世界との関係性)にも理由があると思われます。もっとも、科学(超科学)と魔法の区別といった問題は、各作品のジャンル分けなどを図る場合には問題となりますが、個々の作品を理解する上では実のところそれ程問題とはならないと思われます。
 なぜなら、多くのフィクションにおいては科学と魔法のどちらか一方しか登場しない場合がほとんどでしょう。で、そうした超常現象が科学(超科学)として作中で扱われていたら、読者的にはそれが魔法っぽく見えたとしても、まぁその作中限定でその現象を科学として認識して先に進めばよいだけのことです。逆の場合もまたしかりです。そもそも、最後まで読んでみないと科学なのか魔法なのか分からないというケースすらありますしね(さらには、最後まで読んでも分からないという場合もあり得ます)。
 そうなりますと、科学と魔法の両方にスポットが当てられているような作品の場合だと、はたして両者の区別がどのようになされているのかちょっと気になってきます。
 大西科学『ジョン平とぼくと』シリーズは科学と魔法の立場が逆転した世界が舞台の物語です。そこでは、魔法が日常的なものとして普通に扱われています。そんな中にあって、魔法が苦手な主人公は一人孤独に科学の勉強をしています。そんな科学の位置付けですが、

 しかし、幸いにして科学というものは「他人の知識を共有し受けつぐ」ということを大きな特徴としています。つまり、なあに構うことはないすぐれた先人達の知恵を拝借してしまえばいいのです。パクリではありません科学です。ですから、あなたがもし高校生で、科学に関係する部活動をしており、学園祭などで他人を驚かす実験をする必要にかられたとしたら、図書館や書店には、それに関するたくさんの本がすでにあることでしょう。森のかなたにある魔法使いの塔を訪れ、十年の奉公の対価としてやっと教えてもらう、などということをせずにすむのは、科学がもっと評価されてよい点の一つです。
『ジョン平とぼくときみと』p347より)

ってな具合になってます。ジョン平では個人と世界との関係がクローズアップされます。それは3巻の結末部分において顕著でして、詳しくはネタバレになっちゃうので沈黙せざるを得ませんが(笑)、『ジョン平』における科学と魔法の区別はテッド・チャンの説とほとんど同じものだといって間違いないでしょう。もっとも、『ジョン平』シリーズの場合だと、そこでの科学はいわゆる普通の科学であって超科学ではありません。ゆえに、、あり得る現象=科学、あり得ない現象=魔法、で説明できてしまうのであまり意味はないかもしれません。
 超科学と魔法とがガチンコでぶつかりあっている物語といえば、なんといっても『とある魔術の禁書目録』(鎌池和馬電撃文庫)シリーズでしょう*1。で、本作ですが、実はかなりの問題児です(笑)。魔法は魔法としてとりあえずいいのですが、問題は科学側です。パワードスーツやナノテクノロジーなどは科学ということでよいでしょう。しかし、学園都市の学生たちが持つレベル0〜5までの超能力はハッキリ言って正体不明です。おかげで魔法との区別が付きません(強いていえば信仰に基づくものか否かが基準になり得るかも?)。効力の面から見てもどちらも共に単機能ですしね(参考:MOLI LOG ACADEMY:魔法について)。だからといって、必ずしもそれがこの作品の瑕瑾だともいい切れません。なぜなら、本作においてはシリーズがまだ途中ではありますが、どうもその点が意図的にぼかされているような気がするからです。学園都市側(科学側)のトップであるアレイスター・クロウリーは一方で強力な魔法使いでもあります。魔法と能力との共通のキーワードとなっている”幻想”。そして、魔法も超能力も区別なしに無効化する正体不明の能力”幻想殺し”。
 シリーズはまだまだ続くみたいなのでどうなるのか分かりませんが、私としては上記のような「科学と魔法の区別」といった観点から禁書目録を追っていくのもまた一興だと思っています。皆様もこの点について何かお気づきの点がありましたらお気軽にお知らせ下さいませませ(ペコリ)。

S-Fマガジン 2008年 01月号 [雑誌]

S-Fマガジン 2008年 01月号 [雑誌]

ジョン平とぼくと (GA文庫)

ジョン平とぼくと (GA文庫)

*1:本記事執筆時点で15巻まで刊行。以下、本文も15巻までの内容が前提です。シリーズの進展如何によっては意味をなさないものになるかもしれないのでご注意を。