『キルン・ピープル』(デイヴィッド・ブリン/ハヤカワ文庫)

おれ、、にできることは、どんなことだってできる
(本書下巻p417より)

 近未来のアメリカが舞台の本書ですが、SFならではの驚くべきテクノロジーが実現しています。すなわち、陶土(ゴーレム)への人格のコピーです。身近な例だと、『パーマン』のコピーロボットがイメージとして近いかもしれません。ただし、コピーロボットと違い、ゴーレムの寿命は原則1日限定です(それを過ぎるとスライム化します。すなわち”死”です)。また、ゴーレムは何も本人の肉体や能力をそのまま反映させる必要はありません。単純作業のみをさせたい場合には安価なゴーレム(グリーン)で済ませることができますし、自分とまったく同様の能力(+ちょっとした能力を付加することも可)を持たせたければ高価なゴーレム(グレイ)を使うことで一日に二人の自分が行動したのと同様の結果が得られることになります。さらに、高度な専門的技術に特化したゴーレム(エボニー)や、快楽享受(エロ)専門のゴーレム(ホワイト)などもあります。そもそも人型にこだわる必要もなくて、恐竜だったり小動物だったりと様々なコピーを作ることで通常の人間には到底不可能な作業をこなすことだってできます。そうしたゴーレムたちの記憶は『パーマン』のコピーロボットと同じく原型(オリジナルの人格、本体)によって読み取られることで引き継がれます。タイトルの”キルン”は、ゴーレムを作り出す装置である”陶窯”のことです。つまり、この世界の人々はゴーレムに仕事や勉強をさせることでそれまでの何倍もの人生を過ごしていることになります。
 人格のコピーといった設定からイーガンの『順列都市』(ハヤカワ文庫)を思い浮かべる方もおらえるでしょうが、本書の場合は陶土という物質的な存在を介してしか人格をコピーすることができません。ですから、肉体と人格(魂)との関係についてより深く拘っている点が本書のSFとしての大きな特徴だといえるでしょう。
 そうした社会にあって、当然のことながらゴーレムには人権がありません。その一方で、単純な”物”でもありません。ですから、ゴーレムが盗まれたり違法な人格コピー関連の事件が発生しても、それらは刑事事件ではなく民事事件(著作権法違反事件)として取り扱われることになり、そこに本書の主人公であるアルバートが私立探偵として活躍する余地が大いに生まれることになります。
 ゴーレム関連の事件が著作権法違反事件とカテゴライズされていることからも分かる通り、本書には著作権特許権といった知的財産権についての問題が背景として投影されています。違法コピーや産業スパイなどは現代にも共通の問題です。また、本書の社会では、実在しているテクノロジーを隠匿している場合には情報透過法違反による処罰の対象となりますが、その元ネタにはかつての特許法下で問題となっていたサブマリン特許(参考:Wikipedia)であろうことは想像に難くありません。ゴーレム技術自体は魔法めいたものですが、そうした技術が実現した場合の社会についての思考実験は入念にされていることは間違いなくて、そうした点に本書におけるSF的な面白さを感じ取ることができます。
 本書は、主人公であるアルバートの一人称視点で語られます。ただし、上述のようにゴーレムの使用が日常化した世界での物語ですし、もちろん彼自身も例外ではなくて、状況に応じて自分のゴーレムを作り出すことによって事件を捜査します。ですから、単純な一人称視点ではありません。視点のすべてをアルバートというひとつの人格とみなすのであれば、アルバートによる一人称単元描写による語りということになるでしょう。そうではなくて、ゴーレムはゴーレムになった時点でオリジナルとは異なった人格だと考えるのであれば、一人称複元描写による語りということになります。実際のところは両者の中間としかいいようのない奇妙な語りです。そうした本書の特徴については、作者は当然のことながら自覚的です。

 この物語を一人称視点で語ることには、大きな問題がある。こうして語っている以上、こいつは無事に家へ帰りついたんだな、と聴き手にわかってしまうからだ。すくなくとも、この複製がオリジナルに顛末を伝えられる中継点にたどりついたことはわかってしまう。サスペンスもなにもあったものではない。
(本書上巻p28より)

 ところで、単元にしろ複元であるにしろ、どっちにしても一人称のはずであるにもかかわらず、上記引用のような文章が入り込んでいるわけですが、これは一体何者による語りと考えるべきでしょうか。作者視点からのメタ的な語り? 最初は私もそう思いました。ところが、本書を読み進めていくとそうとはいい切れないことが分かります。一見すると作者のユーモアの発露としか思えないこうした一文が実はとんでもない伏線、かもしれませんしそうではないかもしれません(笑)。本書は物語が進むにつれて自我の同一性(いわゆるアイデンティティ)の問題がクローズアップされることになります。その過程で、自我の限界・一人称の限界にぶち当たり、そして崩壊します。自問自答と会話との境界線がなくなってしまうのです。そのとき、「おまえ」の意味するところは何でしょうか? 問い? それとも答え? 主語はいったい何なのでしょうか? 一人称? それとも二人称? 自我とはいったい何なのでしょう? 普遍にして不変のものなのか? それとも特殊にして可変のものなのか? 残すべきなのは遺伝子? それとも知伝子(ミーム)?
 最初は確かに読み口の軽いSF私立探偵ものなのですが、それが自然に哲学的・思弁的なハードSFへと深化していきます。誤解を恐れずにいえば「エヴァ」とか「人類保管計画」といった単語に反応しちゃう方ならかなり楽しめると思います(笑)。
 そうしたSF的な面白さもさることながら、本書はかなり特殊ながらも私立探偵ものとしての面白さがあることも忘れるわけにはいきません。アルバートの身に降りかかる数々のトラブル。いったい誰が何のために? その真相は複雑怪奇なものではありますが、本書の特殊な設定が十二分に活用されたものです。作者の見事な構成力に称賛の念を禁じ得ません。それでいて、「タフでなければ生きていけない、やさしくなければ生きていく資格がない」((c)チャンドラー)といったハードボイルドな生き様もシッカリ描かれています。SF好きとハードボイルド好きのどちらの方にもオススメしたい作品です。
 なお、本書はアメリカが舞台の物語なのですが、ちょっとだけ出てくる日本についての言及に笑ってしまいました。

 日本では、ゴーレム技術はすんなりと受けいれられて、西洋でみられたような大騒動はなかったといわれる。日本人は魂の複製という概念になんの抵抗もいだかなかったそうだ。アメリカ人がインターネットをあたりまえのように受けいれ、アメリカ的な”発現”の根本的表現手段と見なしたのと同じようなものだろう。伝説によれば、日本では目を描きこむだけで、その対象は生命を持つという。船でも、家でも、ロボットでも――さらには、キュートなテレビ・コマーシャルで菓子パンの宣伝をする、ふかふかの”アンパンマン”でさえも。
(本書下巻p287より)

 ブリンは日本のことをよく分かってますね(笑)。
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