『聖者の異端書』(内田響子/C☆NOVELS)

聖者の異端書 (C・NOVELSファンタジア)

聖者の異端書 (C・NOVELSファンタジア)

 弱きもの。
 何をもって弱いというのか? 肉体的な弱さなのか、精神的な弱さなのか、欲望への弱さなのか。確かに、何をとってもわたしは強くはない。肉体的にも精神的にも。陽気のいい日には日課を放り出して遊びに行きたい気持ちに駆られるし、美味しいものを食べたいだとかきれいな衣装を纏いたいだとか、そんな欲望を抑えることも難しい。が、漠然と弱いと決め付けられても。
 汝の名は、女。
 そう、わたしは名をもたない。名など女には必要のないものだから。
 生まれてから今までは、父の名の下で呼ばれてきた。将来結婚したならば、今度はその男のなの下で呼ばれることになるだろう。
(本書p7〜8より。)

 第一回C☆NOVELS大賞特別賞受賞作です。
 結婚式の最中、雷のような光が落ちてきたかと思った瞬間、「わたし」の夫となるべき人物が突然消えた。周囲から「彼は死んだと思え」といわれても納得のいかない「わたし」は、彼を探す旅に出るが……というお話です。
 女性、特に若い女性の場合、たまに自分の名前を一人称に使う人がいます(参考:MSN Japan - ニュース, 天気, メール (Outlook, Hotmail), Bing検索, Skype)。正直いって、昔はそういう女性を見ると少し痛いなと思っていたのですが、今は違った考えを持っています。日本語には様々な一人称代名詞がありますが(参考:日本語の一人称代名詞 - Wikipedia)、日常的に使われているのは私(わたし)、僕、俺の3つでしょう。このうち、男性は一般的にそれら3つを使い分けています。例えば男性は、公的な場面では”私”、親しい友人の前では”俺”、学生モードの場合には”僕”というようにです*1
 対して、女性には”私(わたし)”しかありません。いや、もちろん僕っ娘とかいますが(笑)、でもそれってやはり一般的とはいえないでしょう。これはつまり日本語あるいは日本の社会が抱えている欠陥というか問題というべきで、そうなりますと、一人称の使い分けができないことから生じるキャラ付けの不自由さというストレスを打開するための手段として、自分の名前を一人称として用いるのはそれはそれでありというか理解できないことはないなぁと今では思っています。
 本書の主人公は「わたし」です。実際に名前がなかったということはないでしょうが、その生き様が語られている手稿の中においてその名が語られることは一切なく、「わたし」による「わたし」からの視点で物語は語られます。それは世界と「わたし」との関わり方が描かれた物語であると同時に、世界と女性との関わり方が描かれた物語であるといえます。
 ……などといってしまうと本書のジェンダー的な意味ばかりを強調することになってしまっていけませんね(汗)。いや、そういう意味は確かにあります。ですが本書の場合には、そうしたジェンダー的意味合いよりも、「わたし」という個人と神との関係のほうにより力点が置かれています。『聖者の異端書』というタイトルや僧院に伝わる手稿という物語形式もそうしたテーマ性に寄与しています。さらにその結末は鮮烈でありながら切ない余韻が残ります。
 本書の最初の一文「弱きもの。汝の名は女。」はシェイクスピアが残した言葉で、そういう言葉が使われていることからして、本書のファンタジーとしての架空世界の作りこみには多少なりとも甘い部分があるのは否めませんし、展開的にも少々唐突で乗り切れない点もありましたが、でも面白かったです。

*1:”自分”もありますが、これも主として男性が使うもので、女性が使うことはあまりないでしょう。