『レイコちゃんと蒲鉾工場』(北野勇作/光文社文庫)

レイコちゃんと蒲鉾工場 (光文社文庫)

レイコちゃんと蒲鉾工場 (光文社文庫)

 蒲鉾工場に勤めるぼくが巻き込まれるのは奇妙な事件ばかり。そして、たまたま知り合った小学生のレイコちゃんとの冒険もまた奇妙なものばかり。ファンタジーのようでもありSFのようでもあり。
 北野勇作の作り出す物語の世界は独特で確固としたものではあるのですが、しかしながら虚構としてのフレームはとても曖昧模糊としています。
 冒頭に置かれている詩のような序文。そもそも詩と小説の区別自体が難しいものではありますが、北野勇作はそうした点を平気で突いてきます。言葉という抽象的な方法による世界の認識。だからこそ、言葉の方を少し突かれただけで世界の認識までも突かれてしまいます。4から死を連想し、また水が一番重くなる摂氏4度という水の温度*1と併せて特別な意味を覚えてしまう。そうした陥穽から物語を生み出す技術。それはときには駄洒落以下の他愛もないものだったり、説得力のない例え話に過ぎなかったりしますが、そのなかに本質を突いた類推的な思考が紛れ込んでいます。幻想的な雰囲気のなかにSF的で科学的な思考が素知らぬ顔で混ぜられています。それが、騙られているようでもありながら心地よさを覚えるところでもあります。蒲鉾を作る過程にホムンクルスの、蒲鉾板には基板の着想を得て、そんな一発芸じみたアイデアが軸となっている物語ではありますが、滑稽さの中にも懐かしさや恐怖といった無視できない情感が潜んでいます。
 本書の語りは、一応、”ぼく”による一人称の語りです。しかし、そうした視点の固定があまり意味を成さなくなるのが北野作品の多くに見られる特徴です。本書がまさにそうですが、生きているはずの”ぼく”がいつの間にか死んでいて、いつの間にか生き返っています。でも、それが本当に生き返っているのかどうかは誰にも分かりません。そうなると、”ぼく”という人物の視点の同一性が保たれているのか甚だ疑問ですし、死んでいるときの意識が拡散しているような語りを一人称と呼んでよいのかどうかもまた疑問です。しかし、北野作品にとってはそんなことは些事に過ぎません。
 ”ぼく”という一個人の問題が、いつの間にやら”ぼく”の勤めている工場の問題や国家の戦争の問題へとシフトしていくのですが、その過程での通過儀礼となるのが”ぼく”の死です。でもそれは阿鼻叫喚といった悲鳴が起こるわけでもなく、淡々といつの間にか通り過ぎてしまっているもので、そこに死の意識はありません。でも、”ぼく”が目にするものには死を意識せざるを得ないもの、血や骨や歯や肉といったものが随所随所に見受けられます。これこそが、私たちが認識できる現実的な死というものなのでしょう。人間によって作られたはずの国家が、自らを維持のために人間に機械となることを、死ぬことを求める現実。ソフトが先かハードが先か。それはSF的な発想ではありますが、同時に過去の戦争の、そして現代社会に通じる現実でもあります。まさに大人のためのファンタジーといえるでしょう。

*1:正確には約3.98度ですが。