『殺人の駒音』(亜木冬彦/MYCOM将棋文庫EX)

殺人の駒音 (MYCOM将棋文庫EX)

殺人の駒音 (MYCOM将棋文庫EX)

 MYCOM将棋文庫から出版されている本は、当然のことながら棋書ばかりですけれど、そんな中にあって本書は極めて例外的な存在です。第12回横溝正史賞特別賞受賞作にして、週刊将棋で連載されていた漫画『輪廻の香車』の原作でもある将棋ミステリーです。
 かつてプロ棋士を目指しながらも年齢制限で奨励会を退会することになった八神香介。それから16年。八神は「死神」とまで怖れられる真剣師の実力者となりアマチュア大会を優勝。プロ棋戦である龍将戦に現れる。異才の真剣師がプロ棋士相手にどこまでやれるのか。世間の注目が集まる最中、なんと第一回戦の対局相手が自宅で何者かによって殺されていた。被害者の手には香車が握られていた。犯人は一体誰? そして動機は? といったストーリーです。
 将棋を題材にした小説ですが、ミステリーとしてもかなり工夫がされています。ダイイングメッセージである香車、持ち時間を利用したアリバイのロジック、そして将棋の駒を使った殺人トリックなど、将棋とミステリーを融合させようと苦心した後が見受けられます。また、トリックとしてのギミックとしてだけではなく動機にも将棋界の現状が反映されている点に、著者の将棋へのこだわりが感じられて好印象です。そうした工夫はなかなかの成果を挙げていると思います。
 しかし、将棋ミステリーとして紹介しておきながらこんなこと言うのも何ですが、本書をミステリーとして読むのは本筋ではありません。いや、ミステリーとして不出来だというわけではありません。ただ、殺人事件が解決するまでの間は当たり前ですが一体誰が犯人なのか分かりません。そのため、誰にどのように感情移入してよいのか分からなくて、作中で行なわれている将棋の対局や内容に集中することができないのです。ところが、殺人事件が解決した後から本書のストーリーは俄然輝き出します(っていうか、ここからがむしろ本番です)。真相が明らかになった後にそれまでの部分を改めて読み返してみると、登場人物たちの事件の関係者としての心情と棋士としてのそれとが判別できるようになり、両方の意味で含蓄のあるものとして味わうことができます。殺人事件による対局者の死亡という前代未聞の事件の発生もあって、龍将戦はドタバタした進行を見せますし、物語としてもいろんな枝葉があります。しかし、読み終わってみれば本書は真剣師である八神香介が将棋に対して命を賭した生き様を描いた物語であったことが明らかになります。それに比べれば、ミステリーとしての趣向など正直オマケみたいなものです。
 書かれた時代が時代なので、パソコンの扱いが古かったり、若手の活躍ばかりが目立ってベテランがだらしなさ過ぎる(∵羽生世代がちょうど台頭してきた頃を背景としているため。今は中堅となった羽生世代を前に若手が苦戦を強いられています)、当時にはなかったアマチュアからプロへの編入試験の導入が今は存在する、といった違いはあります。ただ、順位戦重視(偏重)というプロ制度のシステム自体は今も変わっていませんから、将棋ミステリーとしてもそれなりにリアリティがあります。将棋小説としてもミステリーとしても、なかなかの佳品だと思います。
 なお、巻末には榊秋介という駆け出しの真剣師を主人公とした短編『盲目の勝負師』『子連れ狼』の2本が収録されています。こちらは長篇『殺人の駒音』とは独立した、ミステリー色の一切ない純粋な将棋小説です。ここだけの話、私はこっちの短編の方が純粋に将棋の話が楽しめるので好きだったりしますけどね(笑)。