ライトノベルと親の存在

ライトノベルに見る親子関係の稀薄さ - ブログというか倉庫

 ライトノベルにおける両親の不在というのは、『ライトノベル☆めった斬り!』のライトノベル度診断表のチェック項目(p16〜17)にもあるくらいですから、総論としてはそのとおりだと思います。
 ただ、涼宮ハルヒ”文学少女”シリーズみたいに学園生活がメインの場合には両親があまり出てこなくても自然というか当然だと思います。また、”文学少女”シリーズでは、母親や父親は確かに直接登場しませんが、家族の存在・助けというものを実感している描写はそこかしこに見受けられますから、私は希薄だとは感じませんでした。この辺の判断基準は人それぞれのところがありますけどね。

 ライトノベルと言ってもその内実は様々ですから、不在の理由は作品ごとに分析するより他ないと思います。それでも思考停止する前にちょこっと考えますと、読者層が広くなってきたとはいえやはりメインは中高生ですから学園生活が読みたいんじゃないかなぁ、というのが一つ。また、親が出てきちゃうとパターナリスティック・説教臭いものになりがちで面白みに欠けるというのもありますか? それと、主人公の行動も制約されちゃいますしね。あと、「幸福な家庭は皆同じように似ているが、不幸な家庭はそれぞれにその不幸の様を異にしているものだ」(『魔法先生ネギま!』12巻p125より)のアンナ・カレーニナ理論、すなわち不幸な境遇の方が物語のバリエーションが豊富というのもあると思います。その他の理由についてはリンク先のコメント欄などを参照して下さい(笑)。
 ということで、ラノベにおいて両親が不在なのが普通となると、逆に親がちゃんと描かれているものを探したくなるのが人情というものでしょう。私はラノベ読みというには読書冊数が不足しているという自覚はありますけど、それなりに記憶の書庫を何とか漁ってみたい思います。
 パッと思いつくのは、田口仙年堂吉永さん家のガーゴイル』と、日日日ちーちゃんは悠久の向こう』(私は両親がマトモかどうかは問いません)ですね。どちらも学園生活だけでなく家族というものをしっかりと描いているのが好印象です。特に田口仙年堂の場合、もうひとつのシリーズ『コッペとBB団』というのも書いてますが、こっちのシリーズではコッペには両親がいませんけれど、周りの大人たちが父性や母性といったものを何とか補おうと努力する姿が読みどころの一つでもあります。若者が主人公であれば両親がいることが多いのは通常でしょうし、そうしたあるべき存在を素直に題材として扱えるのは田口仙年堂の良さだと思います。
 外せないのは高橋弥七郎灼眼のシャナ』でしょう。シリーズ途中なので予断を許しませんが、精神的な成長を支えるという意味で悠二の父と母は大きな役割を担っています。さらに、シャナも悠二も肉体的な成長はできないという点では永遠の今を生きるしかない存在です。そんな二人が悠二の両親とどのような別れ(るとは限らないけど)を迎えるのか? 両親の間に生まれる子供には輝かしい未来があるかもしれないけれど、それが逆にシャナと悠二の運命の過酷さを引き立てることにもなるように思います。
 また、我が思い出のライトノベル麻生俊平ザンヤルマの剣士(書評)』では、遼と万里絵の両親はほとんど出てこないので、そういう意味ではご都合主義で希薄です。ただし、4巻の『フェニックスの微笑』で『24人のビリー・ミリガン』や『失われた私』などを引き合いに出して、母娘関係を中心とした親子関係を濃密に描いてます。また、丈太郎と裏次郎との確執は父と子の対立以外の何ものでもないので、トータルとしてはたっぷりと描かれています。やはり特殊なラノベですね(笑)。

 ということで、私の少ないラノベ読書遍歴の中でざっと思い浮かぶだけ挙げてみましたが、他に思い出したら追加します。しかしまあ、確かに少ないですね。だからこそ、こうしたテーマで描かれているライトノベルはそれだけで注目に値すると思いますし、そうした視点で読んでみるのも面白いと思います。そんなわけで、何かオススメの親が描かれているラノベがありましたらお教え下されば幸いです。単発もので簡単に読めて手に入り易いものなら後日プチ書評するかもしれませんことよ?(笑)