巻き込まれ型探偵論からなぜか戯言シリーズについての戯言へ

名探偵コナンと疫学的証明〜名探偵が有罪に?! - アニメキャラが行列を作る法律相談所withアホヲタ元法学部生の日常
 これはまたいろんな意味で力作のエントリです。行く先々で殺人事件が発生するという不思議現象はアニメ『らき☆すた』第3話でもネタにされるくらい有名ではありますが、こうして具体的な数字として出されますとやはり恐ろしいですね。ネタ欲しさのマスコミにマークされないのが不思議なくらいです(笑)。また、疫学的因果関係の理論も面白いです。こんな理論ありえねーだろ、って思われる方もいるかもしれません。でも、読者の立場としては確かにそうかもしれませんが、作中の人物の立場になってみれば切実な問題でしょう。私だって「こっち来るな」って言いたくなりますよ(笑)。
(以下、戯言シリーズ既読を前提に、巻き込まれ型探偵についてや週刊少年ジャンプのインフレ論とかのごった煮。)
 ところで、シリーズもののミステリの多くは、探偵役を務める人物は私立探偵だったり警官だったり犯罪学者だったりと、いずれにしても事後的に事件に関わることが許される特権的な役割が与えられています。こうしたミステリについて小難しいことを言い出すと、何ゆえ探偵は特権的な立場にいられるのか? といった観測者問題みたいなことを考えることになるのですが、それはさておき、どうしてそのような役割が与えられるのかと言えば、やはり特定の人物の周囲にばかり殺人事件が発生するという現象の不自然さを回避するために他ならないでしょう。
 従いまして、『コナン』みたいに行く先々で殺人事件が発生する”巻き込まれ型”(勝手に命名)のシリーズものは、ミステリというジャンル内においては圧倒的に少数派のはずです(統計とか客観的なデータがあるわけではないですが)。巻き込まれ型においては、コナンや金田一、あるいは浅見光彦シリーズのようにその不自然さを豪快に無視しているものもありますが、大抵何らかの工夫がなされているものです。その代表格が北村薫の著作”円紫師匠とわたしシリーズ”などで知られる”日常の謎”と呼ばれるものでしょう。殺人事件が周囲で多発するから不自然なのであって、日常で起こり得る謎をテーマにすれば何の問題もありません。日常の謎の台頭は、殺人事件以外のミステリという新たな可能性・謎の多様性を提示することにもつながりました。
 森博嗣のS&Mシリーズなども巻き込まれ型と言えるでしょう。時間的にその後となるGシリーズは、最初のうちこそ海月たちが主人公っぽい存在のようでしたが、シリーズが進んでみれば、結局は萌絵や犀川が物語の中心人物としての役割を担っています。そうした構図は、上記の不自然さを緩和するために海月たちを緩衝材として配置したということが言えるかも知れません。
 もう一つの手法としてボスキャラ的なキャラを登場させるという方法があります。ミステリにボスキャラ? って思われるかもしれません。しかし、そうした人物が主人公たちの周囲で恣意的に事件を多発させているのであれば、そうした巻き込まれ型の構図も自然なものとなるでしょう。単なる開き直りかもしれませんけどね(笑)。ただですね、ボスキャラを配置しちゃいますと、そのキャラをどうやって倒す? みたいな話に物語の目的がなっちゃうんですよね。しかし、まさかミステリでバトルをするわけにはいかないじゃん……って、それをやっちゃったのが戯言シリーズです。
 そもそも、戯言シリーズは物語の枠というものに極めて自覚的な物語なので、上記のような不自然さすら不敵にもキャラクタの属性へと転化させてしまってます。事故頻発性体質並びに優秀変質者誘引体質(『クビツリハイスクール』p119)というのがそれですが、まあ、コナン君みたいなのはそうした体質として認定したくなりますよね(笑)。で、戯言シリーズは最初のうちこそ本格ミステリとしてスタートしましたが、シリーズが進むにつれ本性が徐々に現れていき、『ネコソギラジカル』に至って清々しい程にミステリではなくなります。ただ、じゃあバトルものなのかと言えばそう単純ではありません。既読の方ならお分かりでしょうが、作中内でバトルは頻繁に行なわれますけど、主人公とボスキャラが直接的に戦うことはありません。そこで行なわれているのは思想戦であり競っているのはスケール勝ちという、少年漫画の論理です(参考:少年漫画の王道とは?①〜スケール勝ちとは時間軸の因果が逆転することをまわりに感染させること)。
 もともと、ミステリというジャンルにはスケール勝ちに適した下地があります。どんでん返しの連続という展開はそう珍しいものではないからです。ただしミステリの場合、そこで競い合ってるのは論理性であって、思想とか倫理とかは無関係とは言いませんが、そういうのは本来的にはオマケです。戯言シリーズにおいて、著者である西尾維新はこうした下地を上手く利用して、ビルディングスロマンを描くことに成功しました。まずは本格ミステリとしてスタートさせましたが、そのことを最大限に利用します。本格ミステリであることのメリットとは何か? 謎→解決という物語の骨格が決まってて書きやすいといったことが一般的に言われます。それもあるでしょう。しかし、戯言シリーズの場合にはもっと本質的な理由があります。ミステリというジャンルの読者は、物語の隅々にまで意味を求め、パズルのピースとして嵌め込もうとします。一方、『ヒトクイマジカル』の冒頭にこんな文章があります。

 ところで自身の存在を物語の主人公のようだと考えたことはないだろうか? そこまで確信に行きつかなくても、自分の存在をある物語の、大きな流れの一環に位置する概念だと、そんな風に思ったことが、一度でもいい、ないだろうか? ただの偶然ですますにはあまりにも必然的で、ただの偶発ですますにはあまりにも因果的、ただの奇運ですますにはあまりにも因縁的だと、何か、いつでもいいどこでもいい、自分の周囲で特異な出来事が起こった際、そう考えたことは、そう考えてしまったことは、本当にないだろうか?
(『ヒトクイマジカル』p8〜9)

 ホントはもっと引用したいのですが切りがないのでこれくらいで。世の中のすべてに意味があるのなら、自分自身も与えられている意味以上でも以下でもない存在に過ぎなくて、それで果たして生きていると言えるのか? ミステリというジャンルが抱えている構造からくる読み方を人生観に置き換えてしまってて、しかもこれが読者の共感を得られるものになっています。また、主人公の戯言遣いは最強の請負人・哀川潤から自分の限界を自分で決めるなと最初からけしかけられ挑発されます。一方で玖渚からは変わらないことを求められます。両者の間で揺れる主人公ですが、ある決意をしたその時から、戯言シリーズはハッキリとミステリというジャンル・フレームから決別します。それが『ヒトクイマジカル』なわけですが、主人公の内面の変化と物語の外枠のレベルチェンジがシンクロしてるのもまた巧みなところです。そこから主人公の精神的成長と共に物語のフレームの変化へとつながり、最終的には主人公がどのような物語を提示するのか? 相手よりデカイ物語を提示できるのか? という少年漫画の理論に落ち着くわけです。
 『西尾維新クロニクル』には西尾維新荒木飛呂彦の対談が載ってます。この対談では、少年ジャンプにおける力のインフレーション論、すなわち、「今お前が倒したのは、我々の中で一番よわいやつだ」的展開から、視点を変えると強いやつ。「強い弱いの概念はない」への変化、北斗の拳』は、武論尊先生が、強いセリフを言った方が勝つという形を作りましたね。といった話題で盛り上がってます。これは単に西尾維新荒木飛呂彦の熱狂的なファンだからというだけではなくて、戯言シリーズがそういう物語だからなのです。じゃあ、最終的に戯言シリーズってどんな物語だったの? って方はぜひぜひフジモリの『ネコソギラジカル』ネタばれ書評をお読み下さいませ(笑)。

フジモリの書評 『ネコソギラジカル(上)』
フジモリの書評 『ネコソギラジカル(中)』
フジモリの書評 『ネコソギラジカル(下)』

クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い (講談社ノベルス)

クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い (講談社ノベルス)

西尾維新クロニクル

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