ジャンル小説読みがよく言う「これは○○だ」「これは○○じゃない」って、結局なに?

 千野帽子『文學少女の友』のなかのエッセイ、『少年探偵団 is dead.赤毛のアン is dead.』が面白かったです。批評やwebでジャンル小説を語っている人達は、ジャンル小説を読まない人たちやジャンル小説自身がどのように見えているか語られてこなかったのでは?という切り口から、ミステリをはじめとする「ジャンル小説読み」を客体として語っているのです。*1
 例えば「BL読み」なんかは自身らを「腐女子」となかば自虐的に自称し、非「BL読み」の人たちから好奇の目の「客体」として語られていることを意識している、と著者千野帽子は書いています。

既存の秩序に反抗するためにすら、秩序だった教養を積み上げていくことをやめられない点で、ミステリ読者共同体はむかしのジャズファンに似ています。教条主義権威主義、クラシック(純文学)ファンを体制派しするアウトロー意識、ポップス(ラノベ)ファンを蔑視するエリート意識。(P96)

 と「ミステリ読者共同体」という存在を分析し、ちょっと前に問題となった「本格」「非本格」についても言及しています。
 「メタ」「萌え要素」などがなぜ「本格」から排除されるのか。誰が排除するのか。
 千野帽子は「ボクら派」と称し、レトロ趣味、パスティーシュ好みを共有し、自身らを「架空の読者共同体(=ボクら)」としている評者、作者らは、<少年時代の幸福な読書体験>に固執しているのではないか(P107)、と揶揄しています。
 要するに、「自身が昔読んで良かった」ものを是とし、それ以外を非としているのではないか?ということです。
 これはSFやミステリのジャンル論にも通じるところがあり、条件に合致すればSF、ミステリというカテゴライズではなく、「これはSFだ」「これはミステリだ」という「感覚論」で分類した後、その作品を分析し、理由をつけているのでは、と語っています。
 確かに、ジャンル小説に限らずこういう傾向はあるもので、とかく「ジャンル」としてカテゴライズした場合、自身の少年(少女)時代に経験したもの*2を中心に置きたがります。
 それを否定されるような作品が出ると「こんなのは○○(=ミステリ、SF、少年漫画などお好きな文字を入れてください)じゃない!」とジャンルから外したくなる気持ちも分かりますが、その感覚の中心にあるものを認識せなあかんなぁ、と考えさせられました。
【関連】プチ書評 千野帽子『文學少女の友』青土社

*1:そういう意味で「今日の早川さん」はペーソスを交えながらも「ジャンル小説読み」を観察対象の客体として巧く語っています

*2:しかも美化されて!